本能寺の変の後、誰が天下を取る?山崎・賤ヶ岳の戦い・清洲会議の解説

山間を流れる川と煙を上げる戦場を俯瞰し、左右から甲冑姿の武将たちの軍勢が進軍する、戦国時代の合戦地図風の横長イラスト
画像:当サイト作成

1582年の本能寺の変は、天下統一目前の織田信長と嫡男・信忠を同時に失わせ、戦国の勢力図を一気に揺らしました。
この「トップ不在」の瞬間に、誰が次の中心となるのかという争いが、本能寺からほど近い山城・近江・越前を舞台に一気に表面化します。とくに羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家の3人は、山崎の戦いから賤ヶ岳の戦いまで、わずか約1年のあいだにめまぐるしく立場を変えていきました。

この記事では、本能寺の変から山崎の戦い、清洲会議、賤ヶ岳の戦いまでを一つながりの流れとして追い、「なぜ秀吉が覇権争いを制したのか」を時間の順番と地理、そして織田家臣団どうしの力関係を軸に整理します。

幼少期からの出世物語や内政制度、朝廷との細かい関係は脇に置き、「いつ・どこで・誰が・どう動いたか」を中心に、本能寺後の天下争いを見ていきます。

なお、羽柴秀吉の生い立ちから草履取り時代、そして天下人になるまでの出世の流れは、豊臣秀吉はどんな人か!天下人となった出世の道を解説でまとめています。

この記事でわかること

    • 本能寺の変後の勢力図 羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家ら、誰がどこを押さえていたのかが地図感覚でつかめます。
    • 山崎の戦いを一気に理解 備中高松城包囲から中国大返し〜山崎決戦まで、「山崎の戦い わかりやすく」を意識して流れで追えます。
    • 清洲会議と賤ヶ岳のつながり 三法師擁立と領地再配分の妙が、なぜ賤ヶ岳の戦い 豊臣秀吉の勝利につながったのかが整理できます。
    • 秀吉が覇権を握れた理由 山崎・賤ヶ岳での地の利と決断の速さ、賤ヶ岳七本槍など人材登用を通じて、「秀吉 覇権争い」の勝因がコンパクトにわかります。
目次

1. 本能寺の変直後の権力争いと秀吉覇権争いの出発点

1-1. 本能寺の変後に天下を狙えた武将たち

本能寺直後に天下を狙えた武将
羽柴秀吉
中国地方で大軍を率いた信長側近
明智光秀
本能寺の変を起こした畿内支配候補
柴田勝家
北陸一帯を預かる武勇の重臣
丹羽長秀
尾張美濃に根ざす古参の調整役
滝川一益
関東方面軍を率いた東国担当

本能寺の変直後には秀吉覇権争いのライバルとなりうる武将が並び、天下の行方は誰にも読み切れない混沌とした状態でした。本能寺の変が起きた1582年6月、京都周辺にいた明智光秀は信長を討った勢いで山城と近江に軍を進め、自らが新たな中心になろうとします。その一方で、中国地方にいた羽柴秀吉、北陸の柴田勝家、尾張・美濃の丹羽長秀、関東筋の滝川一益など、いずれも大軍を動かせる織田家の重臣たちが各地に構えていました。

この時点では、光秀が「主君を討った者こそ新しい支配者になれる」という賭けに出たのに対し、多くの織田家臣は態度を保留していました。長年信長のもとで戦ってきた家臣たちにとって、明智光秀はあくまで一家臣であり、「裏切りで天下を取る」ことに心理的な抵抗もあったと考えられます。とくに尾張や美濃では信長への忠義を掲げる勢力が根強く、光秀の呼びかけにすぐ応じる空気ではありませんでした。

こうした中で、誰が明智光秀を討ち、誰が信長の後継者にふさわしいかという議論が、家臣団のあいだで静かに始まります。山崎の戦いで光秀を討てば、その武将が「信長の仇討ちを果たした英雄」として頭一つ抜け出す可能性が高まりました。この条件をもっとも早く満たす位置に飛び込んできたのが羽柴秀吉であり、ここから本格的な覇権争いの幕が開いていきます。

1-2. 1582年の近江越前美濃の勢力バランス

近江・越前・美濃と山崎の位置関係
近江
信長直轄地中心、秀吉明智が交錯する前線
越前
柴田勝家が北ノ庄城を構えた北陸拠点
美濃
古参家臣と国人が点在する織田ゆかりの地
山崎
山城と近江境の交通要衝かつ決戦舞台

1582年当時の近江・越前・美濃の勢力バランスは、山崎の戦いとその後の清洲会議を理解するうえで重要な舞台装置になっています。近江の大部分は信長直轄の地域でしたが、北部の長浜城にはすでに秀吉の家臣が入り、湖南方面には明智方の影響も伸びつつありました。越前には柴田勝家が北ノ庄城を拠点としており、美濃には古くからの織田家臣や国人領主が点在していました。

この地理配置のなかで、山城と近江の境目にあたる山崎周辺は、もともと交通の要所でした。西から中国地方を経由してくる秀吉軍、北から近江を下ってくる可能性のある柴田軍、そして京都から動く明智軍が、いずれも接触しうる場所だったのです。ここを押さえた勢力が、畿内への入り口と政治の中心に近い位置を握ることになります。

やがて、山崎一帯を支配下に置いた者が、その後の清洲会議で発言力を得やすくなり、さらに賤ヶ岳の戦いで有利に動く条件も手にします。つまり、この時期の近江・越前・美濃の勢力バランスは、そのまま「どこから誰が畿内へ入ってくるか」という動線の問題でした。山崎を制することが、秀吉覇権争いのスタートラインを一歩リードすることにつながったと言えます。

1-3. 滝川一益と上州撤退が与えた空白地帯

滝川一益の上州撤退は、織田家の東側に大きな空白を生み出し、秀吉覇権争いの舞台に見えない追い風をもたらしました。武田氏滅亡後の1582年、滝川一益は上野や信濃の一部を預かり、関東支配の先頭に立っていましたが、本能寺の変の報が届くと情勢は一変します。北条氏をはじめとする関東の諸勢力が一斉に動き出し、一益は神流川の戦いなどで苦戦しながら西への退却を迫られました。

この敗退によって、織田家の関東・東国支配は短期間で崩れ、東側から畿内を支える背骨のような存在が失われます。滝川一益自身も領地を大きく減らし、かつてのように大軍を動かして政権争いに口を出せる立場ではなくなりました。関東方面の混乱は、織田家臣団全体に「旧来の信長体制だけでは持ちこたえられない」という危機感を広げていきます。

こうした背景のもとで、畿内をすばやく押さえた羽柴秀吉に同意が集まりやすい空気が生まれました。東から強く支える柱を失った以上、家臣たちは「どこか一人の強いリーダーのもとにまとまらなければならない」と感じ始めます。この雰囲気が、山崎の戦いで光秀を討った秀吉の地位を押し上げ、のちの清洲会議や賤ヶ岳の戦いにも影響していきました。

2. 山崎の戦いをわかりやすく中国大返しから追う

2-1. 備中高松城包囲と本能寺の変の急報

山崎の戦いをわかりやすく理解するには、備中高松城の包囲と本能寺の変の急報がどのように結びついたかを押さえることが大切です。1582年当時、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにし、中国地方の毛利氏と対峙していました。戦線は畿内から遠く離れ、普通ならすぐに京都へ引き返すことが難しい位置にあったのです。

そこへ本能寺の変の知らせが届くと、秀吉は毛利方との講和という大胆な決断を取ります。信長から預かった軍勢を敵地に置いたまま、主君が倒れた報を受けた将は、本来なら混乱や動揺に包まれてもおかしくありません。しかし秀吉は、敵である毛利氏と短時間で和睦をまとめ、「信長の弔い合戦のために兵を引き返す」という大義名分を作りました。

この講和によって、中国地方での戦いをいったん止めつつ、自軍の撤退路を安全に確保できるようになります。背後から毛利軍に追われる心配が減ったことで、秀吉は畿内への急行に集中できる立場となりました。ここに、後に中国大返しと呼ばれる高速移動の前提条件が整い、明智光秀との正面衝突への道筋が開けていきます。

2-2. 中国大返しの行軍速度と兵站の工夫

中国大返しの主なステップ
  1. 毛利と急ぎ講和し備中戦線を打ち切る判断
  2. 姫路城で金銀と米を開放し将兵の士気確保
  3. 沿道で代金払いにより兵站と秩序を維持
  4. 山崎周辺へ急行し明智軍より先に布陣

中国大返しは、単に移動が早かっただけでなく、兵糧や資金の段取りまで含めて成り立った行軍でした。秀吉軍は備中から姫路を経由して山城へ向かう際、およそ十数日で数百キロを進んだとされ、当時としては破格のスピードだったと考えられます。にもかかわらず、軍勢が途中でばらばらにならなかった点に、この行軍の特徴がありました。

姫路城に戻った秀吉は、自らの蔵にあった金銀や米を惜しみなく開放し、将兵に報酬と食料を配って士気を高めます。また、沿道の国人領主や町人には、略奪を禁じる代わりに代金を払って物資を提供させ、行軍の道筋を荒らさないようにしました。こうした支払いによる協力は、兵站の安定だけでなく、周辺勢力の好意を引き出す働きも持っていました。

このような工夫のおかげで、秀吉軍は疲労を抱えつつも統制を保ち、畿内へ到着したときにまだ戦える状態を維持していました。単なる強行軍ではなく、準備された資金と統率によって支えられた移動だったと言えます。こうして明智光秀が味方を集め切る前に京都近辺へ入り込んだ秀吉は、山崎の戦いで主導権を握る土台を固めたのです。

2-3. 山崎の戦い前夜の近江山城国境の緊張

山崎の戦い前夜には、近江と山城の国境地帯が秀吉軍と光秀軍の緊張がぶつかる最前線となり、空気は一気に張りつめていきました。明智光秀は本能寺の変のあと、すぐに山城・近江方面へ出陣し、旧織田家臣や国人領主に味方になるよう働きかけます。しかし、信長を討った直後の光秀に公然と味方する勢力は多くなく、その進軍は思ったほど広がりを見せませんでした。

そこへ中国大返しを終えた羽柴秀吉軍が、山城の山崎周辺に布陣します。山崎は山城と近江の境目に位置し、淀川沿いの狭い平地と周囲の山地が入り組んだ地形でした。ここに秀吉軍と光秀軍が対峙することで、どちらも退きにくい状況が作られ、にらみ合いの状態から一気に決戦へ向かう空気が高まります。

この地形では、先に有利な場所を押さえた側が戦いの主導権を取りやすくなります。高地や渡河点を早く占拠した秀吉側に比べ、光秀側は十分な味方が集まらないまま正面からぶつかる形になりました。このように、山崎の戦いは単なる衝突ではなく、近江と山城の境界をめぐる位置取りの勝負でもあり、その勝負に勝った秀吉が次の段階へ進む条件を掴んだと見ることができます。

3. 山崎の戦いの布陣と明智光秀退路と天王山の攻防

3-1. 中川清秀と高山右近の布陣と前線の攻防

山崎の戦いでは中川清秀と高山右近の布陣が前線を支える要となり、秀吉軍全体の粘り強さを生み出しました。秀吉軍は天王山から淀川沿いにかけて広く陣を敷き、その一角を摂津の有力武将である中川清秀と高山右近が受け持ちます。地元の地形や道筋に詳しい彼らを前線に置いたことは、敵の動きを読む上で大きな意味を持っていました。

光秀軍はこの前線に対して激しい攻撃を加え、中川隊は重い損害を受けながらも持ちこたえます。清秀自身は奮戦の末に討ち死にしたとされますが、その時間稼ぎによって秀吉本隊は横から押し返す体勢を整えることができました。高山右近の隊もまた、信仰や信条を越えて秀吉のもとで戦う決意を示し、前線の崩壊をぎりぎりのところで防いでいます。

このように前線が踏みとどまったからこそ、秀吉軍は全体としての陣形を保ち、逆襲に移る余地を失わずにすみました。もし中川清秀や高山右近が早々に崩れていれば、山崎の戦いはまったく違う結末を迎えたかもしれません。前線での犠牲と引き換えに守られた時間が、秀吉覇権争いの行方を大きく変えたと言えるでしょう。

3-2. 天王山と淀川沿いの地形が生んだ有利不利

山崎の戦いでは天王山と淀川沿いの地形を押さえたかどうかが、そのまま有利不利の差となり、勝敗に大きく影響しました。秀吉は決戦前に精鋭部隊を差し向け、象徴的な高地である天王山を先に占領させます。高い場所を取った軍は敵の動きを見渡しやすく、攻撃と防御の選択肢が増えるという利点を手にしました。

一方で、淀川沿いの低地はぬかるみや狭い道が多く、大軍が一度に行動するには向かない環境でした。光秀軍が押し込まれ始めると、退却路が兵であふれ、隊列が乱れやすくなります。川や湿地帯は、逃げ遅れた兵が捕まりやすい場所にもなり、敗走が始まると損害が膨らみやすい条件をはらんでいました。

こうした地理的条件を利用しながら戦ったのが羽柴秀吉であり、単純な兵力差以上の差を生み出しています。優位な高地を押さえつつ、敵を動きづらい低地へ追い込む形で戦いを進めたため、光秀軍は立て直す余裕を失いました。この地形をめぐる駆け引きは、後世「天下分け目」とも語られる山崎の戦いの本質の一つだと言えます。

3-3. 明智光秀の退路と山崎敗走のタイミング

山崎の戦いでは明智光秀の退路確保の遅れが敗走のタイミングを悪くし、その後の挽回の余地をほとんど残さない形になりました。光秀は当初、勝てば一気に畿内支配を固められると見込み、全力を戦場へ投入します。退却の際にまとまった軍を維持するための予備兵力や別働隊を、十分に後方へ残していませんでした。

戦況が不利になると、光秀軍は徐々に押し戻され、淀川沿いの狭い道に兵が密集します。そこへ羽柴秀吉側の追撃が重なり、敗走する部隊は小さな群れに分断されていきました。こうなると、軍勢を再編して再び戦線を張り直すことはほぼ不可能で、各隊は散り散りになって逃れるしかありません。

光秀自身もやがて坂本方面へ落ち延びる途中で落ち武者狩りに遭い、その生涯を閉じたと伝えられます。山崎の敗走は、ただの一度の敗北にとどまらず、政権争いから光秀を完全に退場させる決定的な転換点になりました。このように、退路をどう準備していたかという点でも、のちに政権を握る秀吉と、ここで姿を消す光秀の差がはっきりと表れています。

4. 清洲会議での織田家家督問題と秀吉の主導権

4-1. 清洲会議の出席者と柴田勝家丹羽長秀の立場

清洲会議では織田家家督と領地分けを話し合う場で、秀吉覇権争いの次の段階となる人間関係の力学がはっきりしていきました。山崎の戦いののち、尾張の清洲城に集まったのは、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉といった重臣たちです。彼らは信長のもとで長く戦ってきた顔ぶれであり、形式的には皆が「織田家を支える立場」を名乗っていました。

しかし、会議の場での立ち位置には微妙な差がありました。柴田勝家は北陸方面を広く任された武勇の武将として、自分こそ信長の後継を支える柱だという自負を持っていたと考えられます。丹羽長秀は古参としてバランスを重んじ、池田恒興は尾張周辺に根を張る実力者として存在感を放っていました。

一方で、山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉は、「信長の仇を討った英雄」としてわかりやすい功績を持って会議に臨みます。軍事的な勝利という具体的な成果を背景に、発言の一言一言に重みが加わる立場でした。清洲会議は形式上は話し合いの場でしたが、実際にはこの発言力の差が、のちの政権移行の方向性を静かに決めていったと言えます。

4-2. 三法師擁立と織田家家督問題の落としどころ

清洲会議での三法師擁立は、織田家家督問題の落としどころとして選ばれ、同時に秀吉の思惑にも沿う形になりました。三法師(於次丸)は信長の孫でありながらまだ幼い子どもで、自分で政治を動かすことはできません。この性質が、羽柴秀吉にとって好都合な条件となっていきます。

秀吉は「信長の血筋を継ぐ者を立てるのが筋だ」と主張し、三法師を前面に立てる案を推します。この案は、織田家家臣たちにとっても受け入れやすいものでした。なぜなら、特定の重臣が「自分こそ当主」と名乗り出るよりも、血筋のはっきりした幼主を立てるほうが、争いを抑えやすいと感じられたからです。

こうして、表向きは三法師を当主としながら、その後ろに立つ大人たちが実権を握る構図が自然に生まれました。山崎の勝利で武威を示した秀吉は、この新体制の中で主導的な位置を占めやすくなります。三法師擁立という決定は、織田家の看板を保ちながらも、実質的な権力を羽柴秀吉のもとに集める踏み台となったのです。

4-3. 羽柴秀吉の発言力と織田領再配分の妙

清洲会議での織田領再配分は、一見公平に見えながら、実際には秀吉の発言力が色濃く反映された分け方になりました。会議の場で羽柴秀吉は、山崎の戦いで畿内を安定させた功績を前面に出し、今後の拠点となる近江や山城周辺の支配を固めていきます。これにより、政治と経済の中心に近い土地を自分の影響下に組み込むことに成功しました。

柴田勝家は越前・加賀など北陸方面の支配を維持し、丹羽長秀や池田恒興もそれぞれに領地を与えられましたが、畿内のど真ん中からは少し距離を置いた配置になっています。この分配の仕方は、表向きは「それぞれのこれまでの功績に見合った土地を渡す」という筋が通っていました。ところが、長期的に見れば畿内を押さえた秀吉が情報と兵站の面で優位に立つことを意味します。

さらに、会議の場での秀吉は、明るい性格や機転の利いた話し方で場の空気をつかむ名人でした。冗談を交えながらも、肝心な提案はきちんと通していく姿勢が、多くの家臣に「この男ならうまくまとめてくれるかもしれない」という印象を与えます。このように、領地再配分の妙と人心掌握がかみ合ったことで、清洲会議は秀吉覇権争いの中間地点として大きな意味を持つ出来事となりました。

5. 柴田勝家と丹羽長秀の対立と北ノ庄城の行方

5-1. 賤ヶ岳前夜の柴田勝家と羽柴秀吉の勢力差

賤ヶ岳の戦い前夜には、北陸の柴田勝家と畿内の秀吉とのあいだで、勢力差が目に見えない形でじわじわと開いていました。清洲会議後、柴田勝家は越前北ノ庄城を拠点に北陸の守りを固め、上杉氏とのにらみ合いも続けています。一方で羽柴秀吉は、近江・美濃・大坂方面にまで影響を広げ、政治と経済の中心に近い地域を押さえるようになりました。

表向きの兵力や石高だけを見れば、柴田家もなお強大な軍事力を持っていました。しかし、兵を集めやすいかどうかという視点で見ると、畿内一帯を押さえた秀吉のほうが有利になります。人が多く集まり、物資が行き交う地域を支配することで、秀吉は短期間に軍勢を整え、必要なときにすぐ出陣できる体制を作り上げていました。

さらに、山崎の戦いの勝利を広く宣伝したことで、秀吉は「信長の仇を討った大将」というイメージを世に広めていきます。このイメージは、まだ進路を決めかねている国人領主や小大名の心を少しずつ動かしました。賤ヶ岳前夜には、数字に表れる以上の信頼と期待が秀吉側に集まり、勝家との勢力差は見えないところで広がり始めていたのです。

5-2. 北ノ庄城と越前支配が抱えた地理的な弱点

北ノ庄城と越前支配には堅固さと同時に地理的な弱点があり、それが賤ヶ岳の戦いでの動きに影を落としました。北ノ庄城は柴田勝家の本拠として名高く、堀や石垣を備えた強固な城でした。越前一帯も防御に適した山地が多く、外敵から守るには都合のよい土地柄だったと言えます。

しかし、越前から近江へ大軍を送り出すとなると話は変わります。山地を越え、雪深い地域を通る必要があり、季節によっては道が閉ざされることもありました。北陸側から畿内へ向かう軍勢は、移動だけで消耗しやすく、出陣のタイミングも天候や道路事情に左右されます。

対照的に、羽柴秀吉は近江長浜城や琵琶湖沿岸の城を押さえ、賤ヶ岳周辺に素早く兵を集められる立場にいました。琵琶湖を利用した船運もあり、物資の運搬にも有利です。こうした距離と地形の違いが、賤ヶ岳でどちらが先に主導権を握るかという問題に直結し、堅城を構える柴田勝家が逆に動きづらい立場に追い込まれていきました。

5-3. 丹羽長秀や滝川一益との同盟関係の揺らぎ

賤ヶ岳の戦いに向かう途中で、丹羽長秀や滝川一益との同盟関係が揺らいだことは、柴田勝家にとって大きな痛手となりました。清洲会議の時点で丹羽長秀は、勝家にも秀吉にも偏りすぎない古参の立場から、全体のバランスを意識して動いていました。ところが、時間が経つにつれて、その立ち位置は微妙に変化していきます。

山崎の戦いでの秀吉の勝利が世に知れ渡ると、「時流は秀吉にある」という見方が家臣団のあいだに広がりました。長秀は織田家全体の安定を重んじる性格から、勢いのある秀吉と対立するよりも協調を選ぶ方向へ、少しずつ傾きます。これにより、勝家が頼みとしたい重臣の一人が、全面的には肩を並べてくれない状況になりました。

さらに、関東方面で敗れた滝川一益は、以前のように大きな軍勢と影響力を持つ立場ではなくなっていました。彼の後退は、柴田陣営の側面を支える力を弱めることにつながります。こうして、かつては並び立っていた重臣たちの関係が少しずつ崩れたことで、賤ヶ岳の戦いに向かう柴田勝家は、名声に見合うだけの後ろ盾を持たないまま決戦に臨むことになったのです。

6. 賤ヶ岳の戦いと豊臣秀吉七本槍が示した覇権争い

6-1. 長浜城奪取と大岩山砦急襲で主導権を握る

賤ヶ岳の戦いでは長浜城奪取と大岩山砦急襲が連動し、戦場の主導権をどちらが握るかをめぐる駆け引きが展開されました。まず柴田方の先鋒として出た佐久間盛政が、大岩山砦への急襲を敢行し、秀吉側の拠点を一時的に脅かします。この攻撃は勇猛果敢で、初動だけを見れば柴田軍が優勢に見えた瞬間もありました。

しかし、その間に秀吉は動きます。いったん態勢を整え直し、近江の長浜城を押さえることで、自軍の補給線と退却路をしっかり確保しました。長浜城は琵琶湖沿岸の交通の要衝であり、ここを握ることは兵糧や増援の出入り口を押さえることを意味します。こうして秀吉は、大岩山での不利を戦全体の不利にはつなげない布石を打ちました。

その後、前線へ出過ぎた佐久間盛政隊と本隊との距離が開いた瞬間を捉え、秀吉軍は反撃に転じます。突出した敵を重点的にたたく戦い方で、局地的な優位を一気に広げていきました。大岩山砦急襲の衝撃をしのぎつつ主導権を奪い返したこの一連の動きには、秀吉の判断力と賤ヶ岳という地形を活かした戦い方がよく表れています。

6-2. 佐久間盛政の突出攻撃と柴田軍の判断ミス

賤ヶ岳の戦いにおける佐久間盛政の突出攻撃は、勇ましさと同時に柴田軍全体の判断ミスとしても語られます。大岩山砦を攻め落とす勢いを見せた佐久間盛政隊は、戦場の空気を一変させるほどの成果を挙げました。ところが、その成功がかえって前進を止めにくくし、深追いに近い形で敵陣へ食い込んでしまいます。

本来なら、先鋒が勝利した段階でいったん態勢を整え、本隊との距離を確認する必要がありました。しかし、盛政隊は勢いを保ったまま前へ出続け、やがて柴田本隊とのあいだに大きな間隔をあけてしまいます。これにより、援軍を送ろうとしても間に合わない、かといって簡単には引き返せないという難しい位置に立たされました。

この隙を見逃さなかったのが羽柴秀吉です。突出した盛政隊を集中攻撃することで、一部の敵を包囲あるいは孤立させ、柴田軍全体の士気を揺さぶりました。勇猛な先鋒の成功が、全軍の連携を欠いたまま暴走してしまったことで、柴田側は決定的な痛手を負います。この流れが、賤ヶ岳での敗北から北ノ庄城撤退へと続く道を形づくりました。

6-3. 賤ヶ岳七本槍の働きと秀吉軍団の結束力

賤ヶ岳七本槍の活躍は、秀吉軍団の結束力と将来性を象徴する出来事として後世に強く記憶されました。賤ヶ岳七本槍とは、福島正則・加藤清正など、若い武将たちが賤ヶ岳の戦場でめざましい武功を挙げたグループを指します。彼らは危険な突撃や追撃を任されながらも役目を果たし、のちに一括して賤ヶ岳七本槍と称えられる存在になりました。

秀吉は彼らの働きを細かく記録させ、のちの加増や出世の基準として活用していきます。特定の場面での手柄がその後の待遇に直結するという仕組みは、若い武将たちにとって大きな励みとなりました。単に命令どおり動くだけでなく、「活躍すれば将来が開ける」という期待が、戦場での奮戦を支えたのです。

このような評価の仕方は、秀吉軍団を一枚岩の集団としてまとめる効果を持ちました。個人の武勇だけでなく、組織としてのまとまりと将来への希望を与えるやり方が、のちの豊臣政権を支える人材層を厚くしていきます。賤ヶ岳七本槍の物語は、秀吉覇権争いの過程で「人の心をつかみ、組織を育てる」という面でも優位に立っていたことを示すエピソードだと言えるでしょう。

7. 賤ヶ岳の戦い後の近江美濃支配と秀吉政権への橋渡し

7-1. 柴田軍の越前撤退と北ノ庄城の最期

賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田軍の越前撤退と北ノ庄城の最期は、織田家内部の勢力争いに一つの区切りをもたらしました。賤ヶ岳での敗北後、柴田勝家は越前の北ノ庄城へと退き、再起の機会をうかがいます。しかし、その頃にはすでに多くの国人や小大名の心が秀吉の側へ傾きつつあり、北ノ庄城を支える外縁のネットワークは細り始めていました。

北ノ庄城は堅固な城として知られていましたが、周囲の支援を失えば長期籠城は難しくなります。味方の援軍を期待しにくい状況での籠城は、時間が経つほど内部の消耗を招くものでした。やがて、秀吉側の圧力が強まるにつれ、城内に残された選択肢は日に日に狭まっていきます。

最後に勝家は、お市の方とともに北ノ庄城で自害したと伝えられます。この出来事は、北陸における織田旧勢力の中心が崩れたことを意味しました。以後、越前・加賀方面から畿内へ対抗する大きな力はほぼ失われ、羽柴秀吉が西日本から中部にかけて広い範囲に影響力を及ぼす道が開けます。柴田家の退場は、秀吉覇権争いが次の段階へ進むための大きな転換点でした。

7-2. 美濃近江の支配圏拡大と秀吉政権の土台

賤ヶ岳後の美濃・近江支配圏の拡大は、秀吉政権の土台を固めるうえで欠かせないステップでした。賤ヶ岳の戦いに勝利した羽柴秀吉は、近江長浜城や琵琶湖沿岸の城を押さえ、美濃にも勢力を伸ばしていきます。これにより、東山道と畿内をつなぐ要衝をいくつも自らの勢力圏に組み込みました。

美濃・近江には商業都市や豊かな農村が多く、兵糧や軍資金の面で大きな支えとなります。交通の要所を押さえることで、軍勢の移動や情報の伝達も早くなり、他の大名より一歩先んじて行動できる体制が整いました。この地域の支配は、単に土地が広がったという以上に、政権運営の「心臓部」を手に入れたことを意味します。

こうして中央部の豊かな地域を確保した秀吉は、西の中国・九州方面にも、東の徳川や北条の領域にも視野を向けやすくなりました。のちに関白となって全国規模の支配を目指す際にも、この美濃・近江を中心とした基盤が大きくものを言います。賤ヶ岳での勝利からこの支配圏の整備までを一続きの流れとして見ると、秀吉覇権争いが「地図の塗り替え」によって前へ進んでいったことがよくわかります。

7-3. 山崎と賤ヶ岳が示した秀吉覇権争いの帰結

山崎の戦いと賤ヶ岳の戦いをまとめて眺めると、秀吉覇権争いの帰結は武勇だけでなく速度と地理感覚、そして同意を集める巧みさの積み重ねで形づくられたことが見えてきます。山崎では中国大返しによる異例の行軍と天王山の先取りで、明智光秀に余裕を与えないまま決戦に持ち込みました。賤ヶ岳では長浜城確保と突出した敵の撃破によって、戦場と補給を一体で捉える戦い方を見せています。

そのあいだに挟まれた清洲会議では、三法師擁立と織田領再配分を通じて、多くの家臣に「秀吉のもとでまとまるのが妥当だ」という空気を広げました。形式上は織田家を中心とした体制を続けながらも、実質的な決定権は少しずつ秀吉の手の中へ移っていきます。ここでも秀吉は、力ずくではなく話し合いの場を活かす形で、自らの立場を強めていきました。

こうして、本能寺の変という大事件から始まった混乱の時代は、山崎と賤ヶ岳という二つの大きな戦いを経て、秀吉を中心とする新しい秩序へと固まりつつあります。まだ全国統一には道のりが残っていましたが、「本能寺の変のあと、誰が天下を取るのか」という問いに対しては、この段階ですでに答えが見え始めていました。山崎の戦いと賤ヶ岳の戦いをセットで理解することが、秀吉覇権争いの核心をつかむ近道だと言えるでしょう。

8. 山崎・賤ヶ岳・清洲会議に関するQ&Aと誤解整理

8-1. 山崎の戦いはどれくらいの期間で決着したのか?

山崎の戦いの実際の戦闘は、対照的な中国大返しの行程(十数日)とは違い、非常に短期間、すなわち一日からせいぜい数日で決着しました。ただし、この短期決戦の裏には、秀吉による備中からの高速行軍、毛利との講和、そして諸勢力への根回しという、多くの準備期間が積み重なっています。光秀には味方を集める時間的余裕がなかったことが、短期間での決着に大きく影響しました。戦闘自体は一瞬でも、勝負のプロセス全体は周到な準備と情報戦の結果です。

8-2. 清洲会議と賤ヶ岳の戦いにはどんなつながりがあるのか?

山崎の戦い後、織田家の体制と領地を決めた清洲会議は、続く賤ヶ岳の戦いに直結しています。会議で秀吉は近江・山城など畿内に近い要地を、勝家は越前を拠点としました。この領地配置の差が、その後の軍事行動の舞台を形作りました。畿内に根を張った秀吉が有利な状況となり、やがて対立は賤ヶ岳の戦いへと発展。会議で決まった地の利が、短期決戦を可能にした秀吉の勝利の一因となりました。

8-3. なぜ秀吉が最終的に天下人とみなされるのか?

秀吉が天下人とみなされるのは、単なる軍事勝利ではなく、織田家臣団の同意を得て権力を継承したからです。山崎の戦いで「信長の仇討ち」という正統性を獲得し、清洲会議で実権を掌握。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、最大の対抗勢力を排除しました。同時に、美濃・近江といった豊かな地域を支配し、七本槍に代表されるように家臣を厚遇して人心と結束を高めました。この軍事、地理、人事の三面を抑えたことが、秀吉を混乱期の収束者=天下人として認識させました。

9. 山崎と賤ヶ岳から見える秀吉覇権争いのまとめ

本能寺の変から賤ヶ岳までの年表
  • 1582年6月:本能寺の変で信長・信忠が討死
  • 1582年6月末:中国大返しで秀吉軍が畿内へ急行
  • 1582年7月:山崎の戦いで秀吉が光秀を破る
  • 1582年7月:清洲会議で三法師擁立と領地再配分
  • 1583年4月:賤ヶ岳の戦いと北ノ庄城の最期

9-1. 本能寺の変から山崎の戦いわかりやすく振り返る

山崎の戦いは本能寺の変からわずかな時間で起こり、秀吉覇権争いの出発点をはっきり示した合戦でした。本能寺の変で信長と信忠が倒れると、明智光秀はすぐに畿内掌握をめざしましたが、旧織田家臣団の多くは賛同しきれませんでした。そこへ中国大返しを成功させた羽柴秀吉が急接近し、山城と近江の境目である山崎を押さえたことで、光秀は短期間のうちに決戦を受けざるを得ない立場になります。

戦場では中川清秀や高山右近らが前線を支え、秀吉本隊は天王山と淀川沿いの地形を利用して有利な布陣を整えました。光秀側は兵力が決定的に少ないわけではなかったものの、退路や予備兵力の準備が不十分で、押し返されてから立て直す余裕を失っていきます。やがて敗走する軍勢は細かく分断され、光秀自身も落ち延びる途中で命を落としました。

この流れを押さえると、「山崎の戦い わかりやすく」という疑問は、本能寺の変・中国大返し・地形の選び方の三つを線で結ぶことで整理できます。短期間の合戦でありながら、その裏では情報戦と行軍、根回しが折り重なっていました。ここで羽柴秀吉が信長の仇討ちを果たしたことで、「次の中心候補」として一段高い場所に立ったことが見えてきます。

9-2. 清洲会議と賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉が示した強み

清洲会議と賤ヶ岳の戦いは、「賤ヶ岳の戦い 豊臣秀吉」という視点から見ると、秀吉の強みが軍事と政治の両面で現れた一連の流れとして理解できます。清洲会議では三法師擁立を通じて織田家の看板を守りつつ、近江・山城周辺という重要な土地を自らの掌中に収めました。この時点で羽柴秀吉は、表では忠臣として振る舞いながら、畿内という舞台を先に確保することに成功しています。

続く賤ヶ岳の戦いでは、長浜城確保と大岩山砦への対応を通じて、戦場と補給路を一体で見た戦い方を見せました。佐久間盛政の突出を集中攻撃で崩した判断や、賤ヶ岳七本槍の活躍をきちんと評価する采配により、秀吉軍団は「よく動き、よく報われる集団」としてまとまりを強めます。堅城の北ノ庄城を拠点とする柴田勝家は、地理と同盟関係の面でじわじわと不利になり、越前撤退と最期の籠城へ追い込まれていきました。

こうして見ると、清洲会議での発言力と賤ヶ岳での機動力は、別々の話ではなく連続した強みでした。秀吉は話し合いの場では場の空気をつかみ、戦場では距離と時間を味方につけています。「賤ヶ岳の戦い 豊臣秀吉」というテーマは、単に一つの合戦の勝利ではなく、織田家内部で誰が前に出るかを決めた政治と軍事のセットだったと理解できるはずです。

9-3. 秀吉覇権争いが教えてくれる権力移行のパターン

秀吉覇権争いから見える三つの要因
  • 中国大返しに象徴される決断速度と行動力
  • 山崎・賤ヶ岳で有利な地理と補給路を確保
  • 清洲会議などで家臣団の同意と正統性を演出
  • 七本槍登用に見える功績重視の人材活用

本能寺の変から山崎・清洲会議・賤ヶ岳へと続く秀吉覇権争いの流れは、戦国時代の権力移行のパターンをとても分かりやすく示しています。まず本能寺の変という大事件で旧来のトップがいなくなり、明智光秀や柴田勝家など複数の有力者が並び立つ状態が生まれました。その中でいち早く中国大返しを断行し、山崎の戦いで光秀を退けた秀吉が、一歩リードしたわけです。

次に、清洲会議で三法師を立て、織田家の看板を保ちながら実権を集める仕組みを作りました。この段階ではまだ、誰もが「自分こそ新しい天下人だ」とは名乗っていません。ただ、「山崎で勝った羽柴秀吉のもとにまとまるほうが収まりがよい」という空気が、家臣団の中で少しずつ広がっていきます。その空気を背景に、賤ヶ岳の戦いで決定的に柴田勝家を下したことで、秀吉の優位は誰の目にも明らかになりました。

このような過程をたどったからこそ、「秀吉 覇権争い」は単なる武勇比べではなく、速度・地理・同意形成の三つを組み合わせた争いだったと分かります。戦場での勝ち負けだけでなく、どの土地を押さえ、どんな言い方で家臣の心をつかんだかが、天下人への道を形づくりました。山崎の戦いと賤ヶ岳の戦いを時間の流れの中でつなげて見ることで、本能寺の変後の権力移行が一気に立体的に見えてくるのではないでしょうか。

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この記事を書いた人

特に日本史と中国史に興味がありますが、古代オリエント史なども好きです!
好きな人物は、曹操と清の雍正帝です。
歴史が好きな人にとって、より良い記事を提供していきます。

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