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鵜沼城とは?どこにある城で、なぜ「美濃攻め」に不可欠だったのか

鵜沼城をイメージした山城が木曽川の断崖上にそびえ、対岸に犬山城が見える夜明けの川景色
画像:当サイト作成

鵜沼城(うぬまじょう)は、岐阜県各務原市の木曽川沿いにあった中世城郭で、対岸の犬山城と向かい合うように築かれた山城です。現在は城山と呼ばれる小さな岩山だけが残り、城そのものの遺構はほとんど確認できませんが、戦国時代には美濃と尾張をつなぐ渡し場を押さえる要衝でした。鵜沼城は「宇留摩城(うるまじょう)」という別名でも呼ばれ、『信長公記』に登場する宇留摩城がこれにあたると考えられています。

この記事では、まず鵜沼城の場所と立地の特徴を押さえ、そのうえで「なぜ織田信長の美濃攻めに不可欠だったのか」を、渡河点・高地・補給線・心理戦という4つの視点に分けて解きほぐします。あわせて、城主大沢次郎左衛門がいつどのように織田方へ転じたのか、『信長公記』と『太閤記』という2種類の史料から「確実に言えること」と「後世の脚色らしい部分」を分けて整理します。

さらに、小牧・長久手の戦い期における鵜沼の役割や、現在の鵜沼城跡の立ち入り状況、犬山城や伊木山からの眺望ポイントも紹介します。最近ではNHKドラマ「豊臣兄弟!」の舞台のひとつとしても注目されており、歴史ファンとドラマ視聴者が同じ場所を想像できるように、できるだけ地理と戦略を結びつけて説明していきます。

この記事でわかること

  • 鵜沼城(宇留摩城)の一言定義木曽川の渡河点を押さえる「犬山城の対岸の小さな山城」という役割の芯を最速で掴める。
  • なぜ美濃攻めの“入口”だったのか渡河点・高地・補給線・心理戦の4視点で、鵜沼城が橋頭堡として機能したロジックを整理できる。
  • 「犬山城—木曽川—鵜沼城—伊木山砦—猿啄城」の構図城単体ではなくラインで見ることで、信長が戦わずに開城へ追い込む配置を理解できる。
  • 大沢次郎左衛門はいつ・どう転じたか『信長公記』と『太閤記』の記述を分け、確実に言えること/脚色らしい部分を線引きできる。
  • 現在の鵜沼城跡の見学ポイントと注意立ち入り状況、対岸や伊木山側の眺望、犬山城と合わせた回り方まで、「行ける?見える?」を迷わず把握できる。
目次

1. 鵜沼城の基本情報

1-1. 鵜沼城の場所:各務原市・木曽川沿い・犬山の対岸

鵜沼城の立地の要点
  • 尾張犬山の対岸・木曽川沿いに築かれた城址
  • 木曽川渡し場を押さえる尾張美濃の玄関口
  • 橋と船が少ない時代の主要な渡河点支配
  • 犬山城と対で川の門番を務める位置

鵜沼城は岐阜県各務原市鵜沼南町の木曽川沿いにあった城で、対岸の犬山城と向かい合う位置に築かれていました。現在、城山と呼ばれる小さな岩山が鵜沼城跡で、名鉄犬山橋のすぐ北側に突き出すように立っています。住所としては各務原市鵜沼南町7丁目付近が目安で、河川敷から見上げると、木曽川の水面から急に立ち上がる崖のうえに城があったことがよくわかります。

この場所は、尾張側の犬山と美濃側の鵜沼が、川一本を挟んで向かい合う「玄関口」でした。戦国期の街道で言えば、尾張から美濃・飛騨方面へ向かうルートがここを通るため、木曽川の渡し場を押さえることが、そのまま往来と軍事行動を押さえることにつながりました。川を越える橋が限られ、船も貴重だった時代には、こうした渡河点そのものが戦場の焦点になりやすかったのです。

したがって、鵜沼城は単なる城跡ではなく、尾張と美濃を結ぶラインを象徴する地点だと見ると理解しやすくなります。犬山城と対になって初めて機能する「川の門番」の片側であり、ここを誰が押さえるかで、木曽川を挟んだ勢力図が大きく塗り替わりました。この視点を持っておくと、のちに織田信長が美濃へ攻め込む時、なぜ最初の足場として鵜沼周辺を重視したのかが自然に見えてきます。

1-2. 城の特徴:城山(岩山)と断崖に守られた立地

鵜沼城の城郭としての特徴
  • 川に突き出した岩山と断崖を利用した天然要害
  • 規模は小さく猿啄城などと並ぶ川沿いの小城
  • 城山荘の建設と撤去で山上遺構の多くが改変
  • 要害だが兵力乏しく長期籠城には不向きな拠点

鵜沼城の最大の特徴は、木曽川に面した断崖絶壁と岩山そのものを利用した天然要害である点です。城山は小ぶりながらも岩盤の露出した岬状の地形で、川側は切り立った崖、背後も急斜面になっていました。戦国期の山城としては典型的な「崖と斜面に守られた拠点」であり、正面からの攻め上がりが難しいことが当時から意識されていたと考えられます。

一方で、鵜沼城の規模は稲葉山城(岐阜城)のような大城郭には及ばず、周囲の猿啄城などと並ぶ「川沿いの小城」のひとつと位置づけられます。山上には曲輪と考えられる平坦地がいくつかあったとみられますが、近代以降の別荘・旅館「城山荘」の建設や、その後の廃墟撤去で地形が改変され、遺構の多くは失われました。今では山の輪郭から、かろうじて往時の縄張りを想像するしかありません。

このように、鵜沼城は「小さいが登りにくい岩山の城」という性格を持っていました。強固な守りを備えつつも、城の規模や周辺の兵力には限りがあり、周囲の情勢しだいで長期籠城は難しいタイプの拠点です。ここに伊木山砦や犬山城が加わると、鵜沼側が一気に不利になる構図が生まれ、そのことがのちの開城の判断にもつながっていきます。このギャップが、「要害なのに戦わずに降伏した城」という印象を強めていると言えるでしょう。

1-3. 鵜沼城は美濃攻めでなぜ重要だったか

鵜沼城が美濃攻めで重要だったのは、木曽川を渡って美濃側に最初の橋頭堡(きょうとうほ)を作るための足場になったからです。尾張側の犬山城から川を越え、対岸の鵜沼城周辺を押さえることで、信長軍は美濃国内に兵站と退き道を確保しながら、稲葉山城方面へ前進できました。犬山城・鵜沼城・伊木山砦の三点セットで川沿いを押さえたことで、斎藤方の猿啄城や宇留摩城に大きな圧力をかけられたのです。

『信長公記』によると、信長は木曽川を越えて伊木山に砦を築き、宇留摩城(鵜沼城)と猿啄城を攻略目標としました。伊木山から両城を見下ろす位置に布陣したことで、宇留摩城側は「とても守り切れない」と判断し、城を明け渡したと記されています。つまり、鵜沼城は激しい攻城戦の舞台になったというより、「伊木山砦からの圧力に耐えられず、開城を選ばざるを得なかった城」として描かれています。

こうしてみると、鵜沼城単体が圧倒的な主役というより、犬山城・伊木山砦・猿啄城とセットで機能した美濃攻めの入口だとわかります。木曽川の渡河点を押さえ、対岸前線として兵を置き、さらに高地からプレッシャーを与えるという三層構造の中で、鵜沼城は中間点を担いました。この構図を頭に入れておけば、なぜ信長がわざわざこの小城を美濃侵攻の初期に押さえたのかが、短い時間でもイメージしやすくなります。

2. 鵜沼城はどこにあった?「対岸関係」を文章で固定する

2-1. 「犬山城—木曽川—鵜沼城」:何が“対”だったのか

地理的に見ると、犬山城と鵜沼城は木曽川を挟んでほぼ向かい合う位置にあり、まさに「城と城が対岸同士」の関係にありました。尾張側の高台に建つ犬山城から川をはさんだ北東側に、鵜沼城の城山が小さく突き出しています。両方の城から木曽川の流れと渡し場を見下ろせるため、このラインを押さえるかどうかが、美濃と尾張の往来のコントロールに直結しました。

当時、木曽川には現在のような大きなコンクリート橋はなく、限られた橋や渡船が川越えの手段でした。犬山城下の渡しと、その対岸である鵜沼側の上陸点は、軍勢だけでなく人や物資の流れが集中する場所です。ここに城があるということは、軍事面では敵の渡河を妨げ、味方の渡河を守るという役割を持つことを意味しました。犬山と鵜沼の「対」は、単に風景として向き合っているだけではなく、こうした動線の支配を象徴する関係だったのです。

この対岸関係をおさえておくと、鵜沼城の価値が「城郭の規模」ではなく「位置」に大きく依存していたことが見えてきます。尾張側の基盤を犬山城が支え、美濃側の足場を鵜沼城が支えることで、川をまたいだ一本の線ができあがりました。この線を踏み台にして、信長はさらに伊木山砦や猿啄城方面へ圧力を広げていきます。その起点を成していたのが、鵜沼城のある地点だったというわけです。

2-2. 伊木山はどこ?なぜ高地が効くのか

伊木山は鵜沼城の北西側、木曽川から少し内陸に入った場所にある標高約170メートルの山で、信長が砦(伊木山砦・伊木山城)を築いたことで知られています。伊木山の稜線からは、木曽川沿いの宇留摩城(鵜沼城)や猿啄城を見下ろすことができ、両城に対して常時プレッシャーをかけるには理想的な高地でした。『信長公記』でも、信長が伊木山に砦を構え、宇留摩城と猿啄城を攻略目標としたことが明記されています。

高い場所を押さえることの意味は、視界の広さと攻撃の有利さにあります。伊木山からは木曽川の動きや鵜沼周辺の兵の出入りがすべて見渡せたうえ、万一鵜沼城が抗戦しても、上から射撃や奇襲を加えやすくなります。逆に宇留摩城側から見ると、頭上を押さえられた状態で川を背にしているため、逃げ道も限られ、長期に耐える自信を持ちにくい配置でした。高地を取られた側の心理的な負担は、戦国の合戦では極めて大きかったのです。

伊木山の位置を具体的にイメージすると、「犬山城—木曽川—鵜沼城—猿啄城」を斜めに見下ろす、斜め後方の高台という配置になります。ここを信長に押さえられた時点で、鵜沼城は、正面の犬山からの圧力と、背後の伊木山からのにらみの両方を受ける形になりました。こうした挟み撃ちに近い感覚が、「戦わずに降ったほうが賢明だ」という判断を後押しした可能性があります。この意味で、伊木山砦は鵜沼城の「天井」をふさぐ役割を果たしたと言えるでしょう。

2-3. 猿啄城まで含めると入口の構図が見える

猿啄城(さるばみじょう・勝山城)は、鵜沼城から木曽川上流側に位置する山城で、同じく川沿いの断崖に築かれていました。『信長公記』では宇留摩城と並べて登場し、どちらも犬山の対岸ラインを守る斎藤方の城として描かれています。宇留摩城から約3キロほど上流に猿啄城があり、そのさらに背後に稲葉山城方面へ通じる道が延びていたと考えられます。

この二つの城をセットで見ると、木曽川の「入口封鎖」の構図がよくわかります。下流側の宇留摩城(鵜沼城)が犬山城の真正面を押さえ、上流側の猿啄城がその支えとなる形で、川沿いの防衛ラインを作っていたのです。信長軍が伊木山に砦を置けば、宇留摩城と猿啄城の両方を斜め後方からにらめるため、この二つの城はどちらも安泰とは言えなくなります。

こうした配置を踏まえると、鵜沼城の攻略は「美濃攻めの入口をこじ開ける作業」の一部だったと理解できます。宇留摩城が開城し、猿啄城も給水路を断たれて降伏した時点で、木曽川ラインの門はほぼ開いたに等しい状態になりました。ここから稲葉山城に向けて圧力を強めていく流れのなかで、鵜沼城と猿啄城は、最初に取り払うべき「川沿いの鍵」として機能していたのです。

3. なぜ「美濃攻め」に不可欠だったのか(4つの軍事ロジック)

美濃攻めで不可欠だった四つの論点
  • 渡河点の確保で木曽川越えを安全に行う橋頭堡
  • 犬山城と結び尾張美濃間の兵站線を一本化
  • 伊木山砦からの高所圧力で宇留摩城を戦わず開城
  • 猿啄城と併せ木曽川ライン入口の城を連続して無力化

3-1. 渡河点の確保:木曽川を越える作戦の前提

美濃攻めにおいて鵜沼城が不可欠だった第一の理由は、木曽川を安全に渡るための渡河点の確保に役立ったからです。織田軍は尾張側の犬山城を押さえたうえで、木曽川を越えて美濃へ侵入する必要がありましたが、敵ににらまれながらの強行渡河は、兵の損失が大きくなる危険な作戦でした。そこで、渡河地点の対岸をできるだけ早く味方の支配下に置き、兵が安心して行き来できる状態にすることが作戦の前提となったのです。

宇留摩城(鵜沼城)は、まさにその渡河点の対岸に位置しました。ここが敵の手にあるあいだは、渡河中の船や橋を攻撃される危険が高く、渡川作業そのものが大きな賭けになってしまいます。逆に、宇留摩城が開城して織田方の支配下に入れば、犬山側と鵜沼側の両岸が同じ勢力に抑えられ、川の行き来は一気に安定しました。渡河点の安全が確保されることで、美濃深部への侵攻や補給のやり取りが、格段にやりやすくなったわけです。

この意味で、鵜沼城を押さえることは、単に一城を手に入れたというより、「木曽川という障害を味方側に変えた」という意味合いを持ちました。川は敵の側から見れば防壁にもなりますが、両岸を同じ勢力が押さえれば、むしろ強力な補給路に生まれ変わります。鵜沼城の確保は、信長にとって木曽川を「越えるべき壁」から「頼れる道路」に変えるための第一歩だったと考えられます。

3-2. 犬山城と鵜沼城で渡河線が一本できる

第二の理由は、犬山城と鵜沼城をセットで押さえることで、美濃と尾張をつなぐ一本の兵站線ができあがったことにあります。尾張側の犬山城は、信長方の拠点としてすでに機能しており、木曽川を挟んだ対岸として鵜沼城を得ることで、軍勢と物資の出入り口が直線的に結ばれました。このラインが安定したおかげで、信長軍は後ろを気にせずに、より奥の美濃攻略に戦力を振り向けることが可能になりました。

もし鵜沼城が敵方のままであれば、犬山城からの渡河作戦は、常に対岸からの妨害と隣り合わせになります。橋や船を守るために兵を割き、敵の牽制に対応する必要が出てくるため、前線に回せる戦力が細ってしまうのです。犬山と鵜沼の両方を味方が押さえたことで、渡河と補給の経路が一本の太い線として固定され、そのうえに「前線の足場」として伊木山砦や猿啄城攻めが重ねられました。

こうした構図を押さえると、鵜沼城の価値は「守りの堅さ」以上に「線をつなぐ中継点」であったことが見えてきます。犬山城から鵜沼城、そこから伊木山、さらにその先の稲葉山城へと、戦線が段階的に伸びていくイメージです。鵜沼城がなければ、この線は一度どこかで曲げたり、別の渡河点を探したりしなければならず、美濃攻め全体の進み方が大きく変わっていた可能性があります。

3-3. 伊木山砦が戦わず開城を呼んだ理由

第三の理由は、伊木山砦の存在が、鵜沼城を「戦わず開城」に追い込んだ決定打になった点です。『信長公記』は、信長が伊木山に砦を築き、宇留摩城を見下ろす位置に布陣したところ、宇留摩城側が「守りきれない」と判断して城を明け渡したと伝えています。つまり、鵜沼城は要害でありながら、伊木山に強固な砦を作られた時点で、もはや継戦は得策ではないと見なされたのです。

伊木山砦からは、宇留摩城の様子が常に観察され、攻撃を仕かけようと思えばいつでもできるような位置関係でした。宇留摩城は木曽川に面した崖の上にあり、退路も限られるため、補給や援軍を期待しにくい状況だったと考えられます。上からの圧力と、背後の川による逃げにくさが重なれば、いったん包囲が完成した時の不利は明らかでした。そのため、城主の大沢次郎左衛門は、全面戦争よりも城を開け渡す道を選んだとみられます。

このように、鵜沼城の開城は「弱い城だから簡単に落ちた」のではなく、「伊木山砦の配置があまりに不利だったため、あえて長期戦を避けた」という判断の産物だと捉えられます。要害であっても、上から押さえられた地点は防御力を十分に発揮できません。伊木山砦は、地形と心理を同時に攻めることで、戦わずに勝つ形を生み出しました。鵜沼城が難攻不落のイメージと「戦わず開城」のイメージを同時に持つのは、この複雑な事情が背景にあるからです。

3-4. 猿啄城と合わせて「入口の城」を消す意味

第四の理由は、鵜沼城と猿啄城という二つの「入口の城」を続けて無力化したことが、美濃攻め全体の流れを大きく前に進めた点にあります。宇留摩城が開城し、その後、猿啄城も給水路を断たれて降伏したことで、木曽川沿いの防衛ラインはほぼ崩壊しました。入口の城が二つとも機能しなくなった時点で、斎藤方は川沿いで信長軍を止める手段を失い、戦線をさらに内陸へ下げざるを得なくなったのです。

猿啄城の攻略では、丹羽長秀が先陣を務め、城の上の高所に一気に攻め登って水源を押さえたとされます。上と下から攻められた城方は、給水もままならず、やがて降伏して退去しました。こうした戦い方は、単に城を落とすだけでなく、「抵抗しても長くは持たない」と周辺の諸城に印象づける効果も持っていました。宇留摩城の開城と猿啄城の降伏は、周辺勢力にとって、大きな心理的な転換点になったと考えられます。

このように、鵜沼城は猿啄城と組み合わさることで、「木曽川ラインの入口をふさいでいた最後の鍵」として働きました。二つの城がいずれも織田方に制圧されたことで、美濃側の防御は川から山へと後退し、稲葉山城をめぐる攻防へと舞台が移っていきます。入口を丁寧に片づけたからこそ、その後の美濃攻略が安定して進んだとも言えます。鵜沼城の「不可欠さ」は、この入口処理の全体像の中で見ると、いっそう納得しやすくなります。

なお、この「入口を丁寧に片づけて前線を安定させる」という発想は、信長の軍事だけでなく政権運営の設計にもつながります。信長の側でその空気をどう受け止め、のちの豊臣政権へどう引き継がれたのかは、豊臣秀長と織田信長の関係。距離感を史料で整理で紹介しています。

4. いつ・誰が支配した城か(大沢氏と織田方化まで)

4-1. 城主:大沢次郎左衛門とは(確実に言える範囲)

鵜沼城の戦国期の城主として知られる大沢次郎左衛門は、美濃国の土豪で、宇留摩城(鵜沼城)を本拠とした武将です。諱(いみな)については正秀・基康・正重など複数の説があり、史料によって表記が分かれています。『信長公記』は宇留摩城主として大沢の名を挙げ、美濃攻めの際に信長に降伏した人物として位置づけています。

鵜沼城そのものは、室町時代の永享年間(1429〜1440年)ころに大沢氏が築いたとされ、木曽川沿いの土豪の居城として、長くこの一帯を治めてきました。宇留摩城・志水山霧ヶ城などの別名も伝わり、地元の支配者としての存在感は小さくなかったと考えられます。ただし、鵜沼以外の領域支配や系譜の詳細になると、断片的な情報が多く、完全な系図を復元するのは難しい状況です。

こうした限界を踏まえると、大沢次郎左衛門について確実に言えるのは、「宇留摩城主として木曽川沿いを守り、信長の美濃攻めの際に開城・降伏した人物である」という点に絞られます。細かな人柄や逸話は後世の軍記物や講談に多く語られていますが、史実として信用できる部分は慎重に選ぶ必要があります。それでも、川沿いの要衝を任されていたこと自体が、この地域における大沢氏の重みを物語っていると言えるでしょう。

4-2. どうやって織田方になった?(調略と開城)

鵜沼城が織田方になった経緯は、『信長公記』など同時代に近い史料では「伊木山砦からの圧力を受けて宇留摩城が開城した」という骨格で語られます。一方で、『太閤記』など後世の軍記物では、豊臣秀吉の調略が関わった劇的なエピソードとして描かれます。秀吉が大沢次郎左衛門を口八丁で説得し、最後には信長の命に背いて大沢を逃がしたという物語は、今日まで人気のある逸話です。

史料を分けて見ると、確実に言えるのは、信長が伊木山に砦を築き、宇留摩城が降伏したという流れまでです。大沢次郎左衛門がどのような交渉の末に城を明け渡したのか、誰が具体的な使者だったのかといった細部は、『信長公記』には書かれていません。秀吉が大沢を逃がしたという話は、『太閤記』系統の物語で色濃く語られるもので、史実というよりは「人たらしの秀吉像」を強調するための脚色と見る研究者が多いです。

現代のドラマや小説、たとえばNHKドラマ「豊臣兄弟!」などでは、こうした後世の逸話が物語性のあるシーンとして取り込まれることがあります。視聴者にとっては印象に残る場面ですが、史実としては「伊木山砦からの圧力で鵜沼城が維持困難となり、降伏・開城した」という線を基準に考えるのが安全です。調略の物語は、「そう語り伝えられてきた可能性の一つ」として楽しみつつ、一次史料の範囲と区別しておくと、歴史の見方がぶれにくくなります。

4-3. その後:犬山城との関係と付城化の流れ

鵜沼城が織田方になった後、この地点は犬山城と強く結びついた前線拠点として扱われるようになりました。木曽川を挟んだ対岸同士が味方の城になることで、犬山城から鵜沼城へ、さらに伊木山へと続くラインが、尾張側の前進拠点として整えられていきます。やがて美濃深部の支配が進むと、鵜沼城は最前線というより、背後を支える「付城」に近い役割を担うようになったと考えられます。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、鵜沼の地が豊臣秀吉側の渡河・補給拠点として意識されました。池田恒興や中川定成らが犬山城方面で動いた際、鵜沼側の渡しや城跡は、兵の移動と物資輸送の出入口として活用されたと見られます。城としての姿は次第に薄れていきますが、「川沿いの地点」としての重要性は残り続けました。

最終的に鵜沼城は天正12年頃に廃城となり、その後は江戸時代を通じて城山が利用されない時期もありました。しかし、地点としての価値は消えず、近代には別荘や旅館「城山荘」が建てられ、木曽川の景観を楽しむ場所として再利用されています。鵜沼城の歩みをたどると、「戦国の前線拠点」から「近代の景勝地」へと姿を変えながらも、川沿いの要地であり続けたことがわかります。

5. 鵜沼城は史料でどこまでわかるか(限界整理)

5-1. 『信長公記』で押さえる伊木山砦と開城の筋

鵜沼城をめぐる主要史料一覧
鵜沼城関連史料の位置づけ
史料名内容の焦点性格・注意点
『信長公記』伊木山砦の築城と宇留摩城・猿啄城攻略の流れ同時代に近い記録で美濃攻め理解の基礎となる史料
『太閤記』系軍記秀吉による大沢次郎左衛門の調略・逃亡の物語後世の軍記物で脚色が多く逸話として扱うべき資料
各務原市史・自治体資料宇留摩城=鵜沼城の比定や美濃攻め年次の整理地域研究に基づくが一次史料ではなく解釈を含む資料

鵜沼城について同時代に最も近い形で情報を残しているのが、太田牛一が記した『信長公記』です。この書物では、信長が木曽川を渡って伊木山に布陣し、宇留摩城と猿啄城を攻略目標としたことが語られます。宇留摩城は信長の陣がすぐ近くに置かれたため、「守りきれない」と判断して開城したと明記されており、鵜沼城の降伏は伊木山砦からの圧力の帰結として描かれています。

『信長公記』の記述から読み取れるのは、宇留摩城が斎藤方の城であり、城主が大沢であったこと、そして信長の布陣によって開城したという骨格です。一方で、具体的な攻城戦の様子や、城内でどのような議論が行われたのかといった細部はほとんど書かれていません。あくまで「伊木山砦の設置⇒宇留摩城の開城⇒猿啄城の攻略」という流れを押さえることが、この史料から得られる確かな線と言えます。

このため、鵜沼城について考える際には、『信長公記』が示すこの骨格を土台にしつつ、ほかの史料や後世の解釈を慎重に積み上げる姿勢が大切になります。同時代の記録が少ない城だからこそ、わずかに残された情報の意味を丁寧に読み解く必要があります。鵜沼城に関して確実に言える範囲を意識しておくと、ドラマや小説で見かける派手な場面との距離感も、自分なりに測りやすくなります。

5-2. 『太閤記』の秀吉エピソードは「逸話」として読む

「秀吉は本当にその場にいたのか?」「どこまでが後世の物語なのか?」という線引きは、鵜沼城に限らず秀吉周辺ではよく出てきます。たとえば桶狭間でも同じテーマがあり、桶狭間の戦いに豊臣秀吉はいたの?藤吉郎の登場を史実で検証で“確実に言えること”の範囲をまとめています。

鵜沼城と聞いて多くの人が思い浮かべるのが、『太閤記』系の軍記物に登場する豊臣秀吉の調略エピソードです。小柄な藤吉郎が大柄な大沢次郎左衛門を口八丁で説得し、最後には信長の命に背いて大沢を逃がしたという物語は、講談やドラマでもたびたび描かれてきました。人情味あふれる秀吉像を象徴する場面として、現代の作品でも印象的に用いられています。

しかし、この話の出典は主に『太閤記』などの後世の軍記物であり、『信長公記』のような同時代の史料には見られません。各務原市がまとめた解説でも、宇留摩城の降伏は『信長公記』の筋に基づいて説明される一方、秀吉が大沢を逃がしたという話は、あくまで後世の逸話として紹介されています。つまり、このエピソードは「史実というより、秀吉像を彩る物語」として扱うのが妥当だと考えられます。

最近のNHKドラマ「豊臣兄弟!」のように、秀吉と秀長の兄弟関係を描く作品では、こうした軍記的なエピソードが物語の素材として取り込まれることがあります。そのとき、視聴者としては「これはドラマ的なアレンジかもしれない」と一歩引いて楽しむと、史実との混同を避けやすくなります。鵜沼城に関しては、「伊木山からの圧力で開城した事実」と「秀吉が人情で大沢を逃がした物語」を、頭の中で別フォルダに分けておくのが、落ち着いた見方と言えるでしょう。

5-3. 年代のズレや表記(宇留摩城など)を混同しない

鵜沼城をめぐる史料では、城名や年代の表記に揺れがあるため、宇留摩城=鵜沼城という対応関係を意識して読む必要があります。『信長公記』には「宇留摩城」という名前で登場しますが、地元の伝承や近世以降の文書では「鵜沼城」と書かれることが多くなります。さらに、宇留間城・宇留馬城など、似た音の当て字が混在しており、これらがすべて同じ鵜沼の城を指していることを前提に整理しないと、別の城と誤解してしまうおそれがあります。

また、美濃攻めの年次についても、年代記の数え方や元号の表記によって細かいずれが見られます。各務原市の解説などでは永禄8年(1565年)の美濃攻めの文脈で宇留摩城の降伏が語られていますが、史料によっては前後の出来事との対応関係の取り方が異なる場合もあります。こうしたズレは戦国期の史料では珍しくなく、年表だけを見比べて断定的に結論づけるのは危険です。

したがって、鵜沼城に関する情報を読むときは、「宇留摩城=鵜沼城」という別名関係を押さえつつ、年代の細部にはある程度の幅を見ておく姿勢が大切になります。重要なのは、木曽川沿いの宇留摩城が伊木山砦の圧力で開城し、美濃攻めの入口が開かれたという流れです。細かな表記の違いにとらわれすぎず、地理と軍事ロジックを軸にして史料を眺めると、鵜沼城の役割がぶれずに見えてきます。

6. 鵜沼城と「鵜沼」という地点はその後も重要だった

6-1. 小牧・長久手で秀吉が鵜沼を重視したわけ

鵜沼という地点の重要性は、鵜沼城が廃城になった後も続き、小牧・長久手の戦いでも豊臣秀吉側の拠点の一つとして意識されました。1584年のこの戦いでは、秀吉方が犬山城を押さえ、木曽川沿いを通じて兵と物資を動かしましたが、そのとき鵜沼側の渡しや城跡周辺は、実質的な渡河と補給のポイントとして利用されたと見られます。城そのものは使われなくても、渡し場としての価値は依然として高かったのです。

当時の軍勢にとって、川を越えての進軍や物資輸送は、もっとも負担の大きい作業のひとつでした。川沿いに適切な着岸点と集結場所があり、さらに対岸に味方の城や拠点があれば、その負担は大きく軽くなります。鵜沼は木曽川と各務原台地の境目に位置し、周囲に街道も通っていたため、兵を集め、配置するのに都合のよい場所でした。

こうして見ると、鵜沼は「城跡としての鵜沼城」が消えても、「川と陸の結節点」という価値を持ち続けていたことがわかります。小牧・長久手の戦いにおける鵜沼の役割は、戦国後期になってもこの地点が戦略的に見過ごせない場所だったことの証しです。美濃攻めのときに信長が鵜沼を重視した判断は、その後の戦いでも裏付けられたと言えるでしょう。

6-2. ここからわかる“地政学”:川沿い拠点の価値

鵜沼城とその後の鵜沼の歩みから見えてくるのは、戦国期の地政学において川沿いの拠点がいかに重要だったかという点です。木曽川のような大河は、軍勢にとって一方では防壁となり、もう一方では物流の大動脈にもなりました。両岸をどの勢力が押さえるかによって、川が「守りの線」になるのか「攻めの道」になるのかが、大きく変わってしまいます。

鵜沼の場合、犬山城と対岸で向かい合う位置に城があったことが、まさにこの川の性格を左右する鍵でした。美濃攻めのときには、鵜沼城が開城することで木曽川が織田方の補給路として働き、小牧・長久手のときには、城はなくとも渡し場として再び利用されました。川沿いの一点を押さえることが、複数の時代をまたいで軍事行動に影響を与えている例だと言えます。

現代に当てはめると、高速道路のインターチェンジや鉄道の結節点にあたる場所が、戦国時代の鵜沼に近い位置づけだったとイメージするとわかりやすくなります。目立つ施設がなくなっても、交通の分岐点という性格は簡単には変わりません。鵜沼城の歴史は、目に見える城郭の大きさだけでなく、「どこにあるか」という地理条件が、戦略的な価値をどれほど左右するのかを教えてくれます。

6-3. 鵜沼城の価値は城より地点にあった

ここまでをふり返ると、鵜沼城の真の価値は、城そのものの規模や構造というより、「木曽川の渡河点を押さえる地点」にあったとまとめられます。犬山城との対岸関係、伊木山砦からの見下ろし、猿啄城との連携など、どの話題をとっても地理が中心にあります。鵜沼城は、まさに戦国の「位置の城」だったと言ってよいでしょう。

美濃攻めの段階では、この地点を押さえることで木曽川を越える足場と兵站線が整い、小牧・長久手の段階では、城なきあとも渡し場として再び注目されました。城が廃された後も、別荘や旅館が建てられ、景勝地として利用されたことを思うと、「鵜沼」という場所自体が、人と物の流れを引き寄せる性格を持っていたと感じられます。

このように、鵜沼城を理解するうえでは、「要害かどうか」「難攻不落かどうか」といったイメージだけで判断しないことが大切です。崖の上の城という姿に加え、犬山や伊木山、猿啄城との位置関係を思い浮かべることで、鵜沼城が美濃攻めの入り口としてどれほど重要なピースだったのかが、より立体的に見えてきます。地点の価値を意識する視点は、ほかの戦国期の城を眺めるときにも役に立つはずです。

7. 現在の鵜沼城跡:行ける?見える?(アクセスと注意点)

7-1. 立ち入り可否と見える範囲(現状の把握)

鵜沼城跡見学時の注意点
  • 城山内部と柵内区域には立ち入らず外周から眺める
  • 見学は犬山橋付近の河川敷や堤防道路など安全な場所から行う
  • 落石や崩落の危険を想定し無理な接近や斜面の登攀を避ける
  • 遺構探索より木曽川と岩山の景観を楽しむ見学スタイルを意識する

現在、鵜沼城跡のある城山は、立ち入り禁止になっており、山の中に入って遺構を直接見ることはできません。かつて山上には別荘や旅館「城山荘」が建っていましたが、火災やその後の事件を経て廃墟化し、2000年代に撤去されました。その後、山全体は各務原市の所有となり、公園化計画も進められていますが、現時点では安全面の理由から柵内への立ち入りが禁じられています。

とはいえ、城山の姿そのものは、木曽川の対岸や近くの橋からよく見えます。犬山橋付近の河川敷や堤防道路から見上げると、川に突き出た小さな岩山がそのまま城山であり、「あの崖の上に鵜沼城があったのか」と実感できます。遺構を歩いて探すというより、景色として鵜沼城を眺める形の見学スタイルになる点に注意しておくと良いでしょう。

各務原市も公式サイトで「城山(鵜沼城跡)は立ち入り禁止」と明言し、見学は対岸や伊木山側からの眺望を楽しむ形を推奨しています。落石などの危険もあるため、柵を越えて山に入る行為は絶対に避ける必要があります。崖の上に築かれた城の雰囲気を味わいたい場合は、川を挟んだ安全な場所から、木曽川と城山の組み合わせをじっくり眺めてみてください。

7-2. 最寄り:JR鵜沼駅と名鉄側からのアプローチ情報

鵜沼城跡へのアクセス一覧
鵜沼城跡周辺の主なアクセス
出発地利用路線最寄り駅特徴
美濃側からJR高山本線鵜沼駅木曽川まで徒歩圏で城山を正面から望める経路
美濃側から名鉄犬山線新鵜沼駅犬山橋方面へ歩き河川敷から城山を見上げるルート
尾張側から名鉄犬山線犬山駅・犬山遊園駅犬山城見学と合わせ対岸に鵜沼城跡を望む観光向き経路

鵜沼城跡の最寄り駅は、JR高山本線の鵜沼駅と名鉄犬山線の新鵜沼駅で、どちらの駅からも徒歩圏内で木曽川のほとりに出ることができます。駅から南側へ進み、犬山橋方面へ向かうと、川べりから城山を見上げるポイントにたどり着きます。城山そのものには入れませんが、駅からのアクセスは比較的わかりやすく、公共交通機関で訪れやすい立地です。

犬山側から訪れる場合は、名鉄犬山駅や犬山遊園駅から歩いて犬山城を見学し、そのまま木曽川沿いを下ると、対岸に鵜沼城跡の城山が見えてきます。犬山城天守からも、川の向こうに小さな山が見え、その山がかつての宇留摩城であると意識すると、景色の意味が一気に変わります。尾張側から眺めることで、「犬山城—木曽川—鵜沼城」という対岸関係を体感しやすくなります。

また、伊木山側からの眺望ポイントとしては、「キューピーの鼻展望台」周辺が挙げられます。ここからは、木曽川と城山、犬山城を一望することができ、信長が伊木山砦から宇留摩城や猿啄城を見下ろしていた情景を重ね合わせやすくなります。駅から少し歩きますが、美濃攻めの地理を実感したい人には、時間をとって訪れる価値のある場所です。

7-3. 周辺とセットで理解(犬山城など)

現地を歩いて理解を深めるなら、鵜沼城跡単体ではなく、犬山城や伊木山、猿啄城など周辺のポイントと合わせて眺めるのがおすすめです。犬山城から川を見下ろすと、対岸の城山や上流側の山々がずらりと並び、戦国時代の木曽川ラインがどのような風景だったかを想像しやすくなります。鵜沼城がどれほど川際ぎりぎりの場所にあったのかも、犬山側の高さから眺めるとよくわかります。

伊木山に登れば、犬山城と鵜沼城跡、さらには猿啄城方面まで見渡せるため、『信長公記』が伝える「伊木山から両城を見下ろした」感覚を半ば追体験できます。猿啄城跡の勝山城山に足を運べば、こちら側から木曽川を見下ろす景色も味わえます。地図だけではつかみにくい距離感や高低差が、自分の足で歩くことで具体的な数字ではなく「体感」として記憶されていきます。

最近では、NHKドラマ「豊臣兄弟!」の舞台の一つとして鵜沼城跡が取り上げられたこともあり、ドラマの世界と実際の地形を重ねて楽しむ人も増えています。崖の上に築かれた城と、川を挟んだ犬山城や伊木山の関係を現地で見ると、画面越しではわかりにくいスケール感が伝わってきます。歴史ファンにとっても、ドラマファンにとっても、鵜沼周辺は「地理で理解する戦国」を味わえるエリアだと言えるでしょう。

8. FAQ:鵜沼城まわりの疑問を補強する

8-1. 鵜沼城は難攻不落だった?要害だが開城した理由

鵜沼城は木曽川に面した断崖上の天然要害でしたが、「難攻不落の城」というより、伊木山砦からの圧力で開城を選んだ城と見るほうが近いです。上から見下ろされ補給と退路が不利になり、城主大沢次郎左衛門は守り抜くより一族や家臣の生存を優先して降伏した、と整理すると実態に近いでしょう。

8-2. 宇留摩城は鵜沼城か?別名だが文脈を確認

『信長公記』などに出てくる宇留摩城(宇留間城・宇留馬城などと表記)は、木曽川沿いで犬山城の対岸にあり城主が大沢次郎左衛門である点から、基本的に鵜沼城の別名と見て問題ありません。同名の城が他地域にある可能性もあるため、「犬山の対岸」「木曽川沿い」という文脈を確認しながら読むと混乱しにくくなります。

8-3. 美濃攻めの最初の一手は鵜沼城か?三つの城で考える

美濃攻めの「最初の一手」を鵜沼城だけと決めつけるより、犬山城・鵜沼城・伊木山砦の三つをまとめて見るほうが実態に合います。犬山城が尾張側の拠点、鵜沼城が木曽川渡河後の足場、伊木山砦が宇留摩城と猿啄城を圧迫する高地となり、このライン全体で「入口をこじ開けた」と理解すると流れがすっきりします。

9. まとめ:鵜沼城が「不可欠」だった理由を一文で言うと

9-1. 今日の結論をここで一文で再提示する

鵜沼城が美濃攻めに不可欠だった理由は、木曽川を越えて美濃へ踏み込むための橋頭堡として、犬山城・伊木山砦・猿啄城と連動しながら入口のラインを開いた地点だったからだとまとめられます。尾張側の犬山城と対岸で向かい合い、伊木山砦からの圧力を受けつつ開城したことで、木曽川ラインは一気に織田方の通路へと変わりました。川沿いの小さな城に見えて、その位置は戦略全体を動かすスイッチのような役割を果たしていたのです。

この記事では、鵜沼城の地理と歴史を、犬山城・伊木山砦・猿啄城との関係から整理してきました。城の規模や派手な合戦の有無だけに注目すると、その価値を見落としがちですが、渡河点・兵站線・高地・心理戦という四つの視点で見直すと、鵜沼城がいかに重要なピースだったかがはっきりしてきます。同時に、『信長公記』と『太閤記』の違いを意識することで、秀吉の調略エピソードとの距離感も整理できたはずです。

最後に意識しておきたいのは、鵜沼城の歴史が「城そのもの」から「地点そのもの」へと視点を広げるきっかけになるという点です。崖上の城跡を対岸から眺めつつ、犬山城や伊木山の稜線を見比べると、戦国の合戦が地図の上だけでなく、実際の地形の上でどのように動いたのかが、少しずつ肌感覚で伝わってきます。鵜沼城という一つの城を通じて、地理と戦略が結びついて見えてくる体験を、ぜひ他の城にも広げてみてください。

9-2. 次に読むべきテーマ(伊木山砦・猿啄城・犬山城)

鵜沼城の位置と役割が見えてくると、自然と気になってくるのが、伊木山砦・猿啄城・犬山城という周辺の拠点です。伊木山砦は、宇留摩城と猿啄城を見下ろす高地として機能し、「戦わずに開城させる」ための圧力を生み出しました。猿啄城は、水源を断たれて降伏したことで、川沿いの防衛ラインの「もう一つの鍵」が外れた城でした。

犬山城は、尾張側の基盤として美濃攻めの出発点となっただけでなく、小牧・長久手の戦いでも重要な役割を果たした城です。鵜沼城を対岸に見ながら、木曽川を挟んだ勢力図の変化を想像すると、「なぜ信長や秀吉がこの城にこだわったのか」が自然と腑に落ちてきます。木曽川ライン全体を一つの舞台として眺めることで、犬山城と鵜沼城の関係もより鮮明になるでしょう。

鵜沼城を入り口に、伊木山・猿啄城・犬山城と順に地図や現地をたどってみると、美濃攻めは単なる年表の出来事ではなく、「川と山をどう使うか」をめぐる知恵比べだったことが実感できるはずです。戦国時代の城を一つひとつ点で見るのではなく、川や山を通じた線として眺めると、歴史の風景はぐっと立体的になっていきます。そのとき、鵜沼城はいつも、その線の出発点の一つとして、静かに姿を現してくれるでしょう。


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