稲葉山城とは? “難攻不落”の理由を地形・縄張り・防御線から読み解く

金華山の岩山の頂に建つ稲葉山城(岐阜城)が、周囲を雲海と山並みに囲まれて浮かび上がる早朝の幻想的な風景
画像:当サイト作成

稲葉山城(のちの岐阜城)は、金華山の険しい地形をそのまま要塞化した山城で、「難攻不落」と呼ばれてきました。強さの理由は単に“高い山にあるから”ではありません。尾根と谷で攻め道を絞り、曲輪・堀切・竪堀・虎口で隊列を分断し、山麓→山腹→山頂へと三層の防御線で時間と兵力を削る――この仕組みが噛み合って、攻城戦を極端に不利にします。

この記事では、稲葉山城の防御を①金華山の地形(尾根・谷・岩盤)②縄張り(曲輪配置と通路設計)③山麓〜山頂の防御線の3点で一本化して解説します。あわせて、1567年(永禄10)の稲葉山城の戦いで織田信長がどう攻めたのかを「孤立化→攻城→内応で崩れる」流れとして追い、“難攻不落なのに、なぜ落城したのか”を誤解なく整理します。

さらに、斎藤道三・斎藤龍興の時代と信長期の改修について、史料や発掘で言えること/推測が混ざるところを分けて紹介。最後に、岐阜観光で防御の工夫を体感できるよう、七曲りなど登城路の選び方と現地の見どころもまとめます。

この記事でわかること

    • 稲葉山城が「難攻不落」と言われた理由を、地形×縄張り×防御線で一本化:「険しい山だから強い」で終わらせず、どこで敵が止まり、どこで分断されるのかまで言語化できる。
    • 金華山の地形が攻城戦をどう不利にするか(尾根・谷・岩盤)を噛み砕いて理解:ルートが絞られる意味を、攻め手の行軍・隊列・連携の崩れまで落として説明できる。
    • 「曲輪・堀切・竪堀・虎口」が稲葉山城でどう効くのかを、現地目線で整理:用語の暗記ではなく、どこを見れば“山城らしさ”が掴めるかがわかる。
    • 1567年の稲葉山城の戦いを「攻めの手順」として追える:合戦名の知識で終わらず、孤立化→攻城→内応で崩れる流れがつかめる。
    • 「難攻不落なのに、なぜ落城した?」を誤解なく整理“攻めにくい”と“落ちない”は違うという線引きを、地形以外(政治・家臣団・同盟)も含めて説明できる。
    • 斎藤期/信長期の改修を「確実/推測」で分けて語れる:断定しすぎず、発掘調査・史跡資料で言える範囲に沿って安全に説明できる。
    • 岐阜観光で「防御の工夫」を体感できる歩き方がわかる:ロープウェイ/登山道の選び方から、七曲りで“攻めにくさ”を実感する視点まで手に入る。
目次

1. 稲葉山城と岐阜城の関係と時代背景を整理

1-1. 稲葉山城とはどんな山城でどこにあったのか

稲葉山城は金華山の山頂近くに築かれた山城で、のちの岐阜城の前身とされます。現在の岐阜市中心部の北側にそびえる標高300メートルあまりの金華山の上にあり、長良川と城下町を見下ろす位置に構えました。斎藤氏の本拠となったこの山城が、美濃一国の政治と軍事の要でした。

当時の金華山は「稲葉山」と呼ばれ、急な斜面と岩盤が多い険しい山でした。その山頂付近に本丸にあたる曲輪を置き、山腹から山麓にかけていくつもの曲輪や登城路を配して、山城としての防御を固めていました。ふもと側には山麓居館や城下町がつくられ、山上と合わせて一体の城として機能していたと考えられます。

このように稲葉山城は、単なる山上の砦ではなく、山麓の居館や町を含めた「山城+平地の拠点」という構えでした。ここに美濃の支配が集約されていたからこそ、のちに織田信長が奪取して拠点を移す価値があったといえます。稲葉山城を理解することは、美濃の政治構造を知ることにもつながるのです。

1-2. 斎藤道三と斎藤龍興:稲葉山城をめぐる親子三代

稲葉山城は斎藤氏三代の本拠として機能し、その変化が城の性格にも影響しました。美濃を奪い取った斎藤道三がこの山城を拠点とし、そのあとを斎藤義龍、斎藤龍興と受け継いでいきます。親子三代が同じ城に住みながら、内政や対外戦争のやり方を変えていきました。

道三は油商人から身を起こし、やがて美濃国主にのし上がった人物として知られます。その道三が稲葉山城を拠点としたことで、この城は「下剋上の象徴」のようなイメージも帯びました。一方で、義龍は尾張の織田氏との関係をにらみつつ、美濃国内の勢力の調整に追われる立場でした。

最後の当主である斎藤龍興の時代には、若さと政権基盤の弱さが重なり、美濃国内で不満を抱く武将も増えていきました。こうした政治的な揺らぎは、のちの稲葉山城の戦いで内応が生まれる土台にもなります。三代にわたる政権の移り変わりが、山城の防御だけでは守り切れない事情を作っていったと見ることができます。

斎藤龍興の人物像や家臣団との関係をもう少し整理しておくと、稲葉山城が「地形だけでは守り切れなかった」理由が見えやすくなります。
斎藤龍興とはどんな人? 生涯・年表・家系図でわかる基本情報まとめ

1-3. 稲葉山城から岐阜城へ改名が示す政治的な転換

稲葉山城が岐阜城と呼ばれるようになった改名は、単なる名称変更ではなく政治的なメッセージでした。美濃を制圧した織田信長が「岐阜」と名付け、ここを新たな拠点として天下取りの出発点に位置付けたのです。この改名には、美濃支配だけでなく全国進出を意識した意図が込められていました。

信長は中国の故事にちなみ、「岐山」「曲阜」などの地名から文字をとって「岐阜」と名付けたと伝えられます。ここには、古代中国の周のように新しい天下の秩序をつくるという意気込みが重ねられました。城の名前を変えることで、美濃の一国城主から広い天下を見すえた支配者へと自分の立場を押し出した形です。

こうして稲葉山城は、信長の手で岐阜城として再出発し、城下町の整備や商業の振興も進められました。山城としての強さは保ちつつ、城下の性格がより政治と経済の中心へと変わっていきます。名称の変化を追うだけでも、稲葉山城が単なる戦の舞台ではなく、時代の転換点を象徴する場所だったとわかるでしょう。

2. 金華山の地形と稲葉山城が山城として強い理由

2-1. 金華山の標高と稲葉山城の立地が攻城戦をどう変えるか

金華山の標高と斜面のきつさは、稲葉山城を「難攻不落の山城」に近づけました。標高300メートル級とはいえ、ふもとの長良川との高低差が大きく、直登すれば兵の体力が一気に削られます。この高さと斜度が、攻める側にとって大きな負担となりました。

山の中腹から上は岩がちの斜面が多く、足場の悪さが続きます。そのうえ、登れる尾根筋が限られているため、攻城軍はどうしても決まったルートに集中せざるを得ませんでした。守る側から見れば、見通しのいい位置から矢や鉄砲を浴びせたり、転石や丸太を落としたりしやすい環境だったのです。

このように、金華山の標高と斜面の組み合わせが、攻城戦そのものの段取りを変えていました。攻める側は数を生かした包囲がしにくく、細い登城路を縦一列で進む危険な行軍を強いられます。高さと傾斜という単純な条件が、戦いの主導権を城側に引き寄せる土台になっていたといえるでしょう。

2-2. 尾根と谷と岩盤:自然地形主体の防御が生まれる仕組み

稲葉山城の防御は、尾根と谷と岩盤を生かした「自然地形主体の防御」が特徴でした。金華山は複数の尾根が山頂に向かって伸び、その間を急な谷が刻んでいます。この構造そのものが、攻め口を細く絞り込むフィルターの役割を果たしました。

城側は、この尾根の上に曲輪を段状に並べ、尾根を切り欠いて堀切を入れることで、尾根すじを何度も分断しました。谷筋には竪堀を設けて横移動をさえぎり、敵が尾根から谷へ回り込む動きを抑えます。硬い岩盤の上にこれらの防御施設を築くことで、土砂崩れなどにも強い構えになっていきました。

このような地形活用により、稲葉山城は人工物を大量に築かなくても、高い防御力を確保できました。自然の尾根と谷をうまくつなぎ替えることで、敵の進路を自在にコントロールできたのです。城造りの工夫と山の性格がかみ合ったとき、山城はここまで手強くなるのだと実感できます。

地形要素と防御効果(要点整理)
地形要素城側の活用攻め手への効き方
尾根曲輪を段状配置・堀切で分断進路固定・縦列化で数を殺す
竪堀で横移動を遮断迂回困難・連携崩れを誘う
岩盤斜面見通し確保・転石系の脅威足場悪化・接近速度の低下

2-3. 登城路が限られることはなぜ「難攻不落」につながるのか

登城路が限られていること自体が、稲葉山城を「難攻不落」に近づけました。攻める側の選択肢が少ないということは、守る側が準備すべき正面も少ないということです。ここで登城路は、防御線を細く長く引ける「狭い門」のような役割を担いました。

金華山には、大手とされる七曲りの登城路など、いくつかのルートがありますが、いずれも急な曲がりや細い尾根が続きます。攻城軍が大軍で押し寄せても、実際に斜面を登れる人数は限られ、列をなして進むしかありませんでした。その列の横腹や先頭を狙われれば、数の優位はたちまち失われます。

このように登城路が少ない城は、攻める側にとっては「迂回路を探しにくい」という心理的な重圧も与えます。いったんどこかの登城路で行き詰まれば、他のルートに回り込むだけで時間と兵力を消耗してしまうからです。登城路の制約そのものが、防御を厚く見せる一種の抑止力になっていたといえるでしょう。

3. 稲葉山城の縄張りと曲輪が守りを固める仕組み

3-1. 稲葉山城の縄張りは山上のどこを重点的に守っていたのか

稲葉山城の縄張りは、山頂近くの中枢部を徹底的に守るように組み立てられていました。山上の本丸にあたる曲輪だけでなく、その周囲に複数の曲輪を帯状に配し、何重もの防御層を作り出しています。ここに、稲葉山城が大名の本拠として命を預けるに値する構えであったことが表れます。

本丸に向かう尾根には、手前から順に腰曲輪と呼ばれる小さな平場が連なり、敵の登りを細かく受け止める配置が目立ちます。曲輪どうしの間には堀切や切岸が入り、簡単には次の段に取り付けないようになっていました。山頂部に近づけば近づくほど、尾根が細くなり、曲輪の間隔も詰まっていく構造です。

こうした縄張りにより、守る側は奥に引きこもるほど防御力が増す仕組みを手に入れていました。仮に外側の曲輪が破られても、内側の曲輪で態勢を立て直すことができます。一方で攻める側は、前進するたびに新しい防御線にぶつかり続けることになり、山頂に近づくほど消耗が激しくなったと考えられます。

3-2. 曲輪と堀切と竪堀:尾根上で敵を分断する攻めにくさ

稲葉山城の曲輪と堀切と竪堀は、尾根上で敵を細かく分断するために組み合わされました。尾根をそのまま登らせるのではなく、切り欠いて段差を作り、平場を挟み込むことで、敵の進軍を何度も止めるのです。ここに、山城の防御施設が連携して機能する強みがあります。

堀切は尾根を横断するように掘られ、敵が尾根づたいに進む流れを切ってしまいます。攻城兵は堀底に降りて登り直すか、狭い堀の縁を危険を承知で進むかの選択を迫られました。その堀切の両側や背後には曲輪があり、上から矢や鉄砲を撃ち下ろす準備が整えられていたと考えられます。

竪堀は谷筋に沿って縦に掘られ、尾根から谷への横移動を抑える役目を持ちました。こうした施設が組み合わさることで、敵は集団で動くことが難しくなり、小隊ごとに分かれて進まざるを得ません。数の多さを生かせない状況を作り出せた点が、稲葉山城の攻めにくさの核心だったでしょう。

3-3. 虎口まわりの構えが山城の防御をどこまで高めていたか

虎口まわりの構えは、稲葉山城の防御を最後に引き締める役割を果たしました。虎口とは城の出入口にあたる部分で、ここをどう造るかが守りの水準を左右します。稲葉山城では、曲がった通路や門を組み合わせて、敵をまっすぐ城内に入れない工夫が行われました。

出入口の手前には小さな曲輪や石垣が設けられ、門を抜けた敵がすぐに広い空間へ出られないようにしました。通路を折れ曲がらせることで、攻城兵は視界の悪い角をいくつも曲がる必要が生じ、そのたびに側面や背後からの攻撃にさらされます。門の上や周囲からの攻撃を集中させる「袋小路」のような構えだったと考えられます。

このような虎口の構えによって、たとえ外側の防御線が突破されても、城内への侵入を一気に許さない余地が残りました。山城であっても、虎口の設計次第で平城に近い防御力を補うことができたのです。稲葉山城の虎口を意識して歩いてみると、防御の重点がどこに置かれていたかが立体的に見えてきます。

4. 山麓から山頂まで続く稲葉山城三層の防御線

三層防御線の役割(対応表)
主な舞台狙い
外縁山麓居館・城下町補給線維持・情報と士気の防波堤
中間山腹の堀切・竪堀・曲輪進軍遅延・横移動封鎖・消耗誘発
中枢山頂曲輪・一ノ門・巨石石垣虎口集中防御・最後の踏ん張り

4-1. 山麓の居館と城下町は稲葉山城の外縁防御線だったのか

山麓の居館と城下町は、稲葉山城の外縁にあたる防御線としても働きました。山上だけが城ではなく、ふもとの施設や町並みも含めて防御のシステムが組まれていたのです。この外縁部が攻め込まれるかどうかで、山上がどれだけ余裕を持てるかが変わりました。

斎藤氏の時代、山麓には主君の居館や家臣団の屋敷、寺社などが集められ、城下町の骨格が形成されていきました。敵がこの一帯を制圧するには、まず街道筋を押さえ、長良川の渡し場周辺も掌握しなければなりません。山城にたどり着く前に、平地の攻防で多くの兵力と時間を費やす構造だったといえます。

この外縁防御線が十分に機能していれば、山上の守備隊は補給路と退路を確保しつつ、落ち着いて防御戦を展開できます。一方で、城下が早くから動揺すれば、山城も孤立しやすくなり、長期戦が難しくなりました。山麓の居館と城下町は、武力だけでなく、情報と士気の面でも重要な防波堤だったと考えられます。

4-2. 山腹の堀切と竪堀でつくられた第二の防御線のイメージ

山腹に設けられた堀切と竪堀は、稲葉山城の第二の防御線を形づくりました。外縁である城下や山麓が押されたとしても、山腹の防御施設が敵の進軍を大きく遅らせる役目を担ったのです。ここに、三層のうち中間を支える「クッション」のような防御帯がありました。

山腹では、主要な尾根の要所に堀切を入れ、そこに付属する曲輪で敵を迎え撃つ構えがとられました。登城路の途中にこうした防御点を置くことで、攻城軍は進むたびに立ち止まり、態勢を立て直す時間を取らざるを得ません。竪堀によって横移動も妨げられるため、一気に側面へ回り込む戦法も取りにくくなります。

この山腹防御線がしっかり機能していれば、城側は敵の消耗を待ちながら、山頂の中枢部で最終防御戦を構えることができました。もちろん、実戦では人員や士気の問題も絡みますが、縄張りの設計としては、敵の勢いを何度も削る筋道が用意されていたといえます。山腹の防御線を意識して登ると、稲葉山城の全体像が一段と理解しやすくなるでしょう。

4-3. 山頂部の中枢曲輪:一ノ門と巨石石垣が守る最後の防御線

山頂部の中枢曲輪は、稲葉山城三層防御の最後の要であり、一ノ門や巨石石垣がそれを支えました。ここまで敵が迫ってくる段階では、城の命運は一歩手前まで追い込まれています。それだけに、山頂部には最も厚い防御が集中していたと考えられます。

一ノ門は山頂部に入る重要な出入口であり、門の周囲には石垣や小曲輪が組み合わされていました。巨石を積んだ石垣は、山城としてはかなり重厚な構造で、単なる土の城に比べて格段に崩されにくい壁となります。門を突破しようとする敵は、狭い空間に押し込められた状態で、四方からの攻撃にさらされました。

この中枢部の防御線が強固であったからこそ、稲葉山城は平地の城とは異なる「最後のしがみつき」が可能でした。守備兵は山腹の防御線で時間を稼ぎ、この山頂部で決戦を挑む態勢を整えられたのです。現在の岐阜城天守周辺を歩きながら石垣や曲輪の高低差を意識すると、三層防御の締めくくりとしての役割が体感しやすくなるでしょう。

5. 稲葉山城の戦いで見る1567年信長の攻城戦

5-1. 1567年稲葉山城の戦いはどのような情勢で始まったのか

稲葉山城の戦い(1567年)の流れ(概略)
出来事要点
1567年(永禄10)周辺勢力の切り崩し進行稲葉山城の孤立を先に作る
1567年(永禄10)登城路を使った主攻・陽動守りの薄い筋を突く発想
1567年(永禄10)内応・連携乱れで崩壊防御力より政治基盤が致命傷

1567年の稲葉山城の戦いは、美濃をめぐる勢力バランスが傾いたタイミングで起こりました。尾張の織田信長が勢いを増す一方で、斎藤龍興のもとでの美濃政権は家臣団の不満を抱えていたのです。このゆらいだ情勢が、難攻不落とされた山城に攻め込むきっかけとなりました。

それまでにも信長は、美濃国内の一部勢力と同盟や婚姻関係を結ぶなど、じわじわと影響力を広げていました。龍興側では、若年の当主を支える体制が十分とはいえず、国内の結束も強くありません。外からの圧力と内側の不安定さが重なった状態で、稲葉山城をめぐる最終局面が訪れます。

こうした背景があったからこそ、信長は強固な山城への総攻撃を決断できました。単に武力で攻め落とすのではなく、事前に周辺の城や在地勢力を取り込んでおいたことで、稲葉山城は孤立しやすい状況に追い込まれていたのです。城の防御力だけでは語れない「攻め込まれる前の流れ」が、この戦いを理解するうえで欠かせません。

この戦いが信長の生涯のどの局面に当たるのかを年表で押さえると、美濃攻略の意味づけがはっきりします。
織田信長って何をした人?生涯や功績を年表使用で解説

5-2. 織田信長の攻城戦:稲葉山城攻略ルートと登城路の推定

織田信長の攻城戦は、稲葉山城の地形と登城路を読み込んだうえで展開されたと考えられます。どの尾根を主攻とするか、どこで陽動を行うかは、金華山の地形を知っているかどうかで大きく変わりました。ここで、七曲りなどの登城路が重要な意味を持ちます。

後世の研究では、信長軍が大手にあたる登城路だけでなく、別の尾根筋からも攻め込んだ可能性が指摘されています。地元勢力や内応した武将が、地形や山道の情報を提供したと考えられるためです。攻めやすい道よりも、守りの目が薄くなりやすいルートを選び、短時間で城の要所に迫ろうとしたのでしょう。

このような攻略ルートの工夫は、稲葉山城がいかに「登れる道が限られた山城」だったかを逆に浮かび上がらせます。限られた登城路をどう使い分けるかは、攻城戦の成否を左右する要因でした。現在七曲りや他の登山道を歩きながら、どこが攻めやすくどこが守りやすいかを想像してみることは、歴史の攻防を追体験する手がかりになります。

5-3. 稲葉山城の「難攻不落」はなぜ調略と奇襲で崩れたのか

稲葉山城の「難攻不落」は、調略と奇襲によって崩されました。山城そのものの防御力は高かったものの、政治的な結束が弱まっていたため、内側から崩れやすい状態になっていたのです。ここに、城の強さと政権の強さは別物だという教訓が見えます。

稲葉山城の戦いでは、城内にいた武将の一部が信長側に内通したと伝えられています。こうした内応により、城の重要な地点が思いがけず開かれたり、守りの連携が乱れたりしました。強固な石垣や堀切も、守る側が動揺してしまえば十分に力を発揮できません。

この戦いは、「難攻不落」と名高い山城でも、外からの力と内側の事情が重なれば崩れることを示しています。逆にいえば、稲葉山城ほどの防御力を持つ城でさえ、政治的基盤が揺らいだときには守り切るのが難しかったということです。攻城戦を通して、防御とは地形や縄張りだけでなく、人間関係と信頼の問題でもあると気付かされます。

6. 「難攻不落」の意味と稲葉山城が落城した事情

落城を招いた要因(地形以外の整理)
要因中身結果
家臣団の動揺不満・派閥化・離反の芽守備の統率低下
内応・情報流出要所の開放・案内の可能性防御線の穴が露出
周辺支配の崩れ外縁の拠点が先に落ちる補給と士気が先細り
攻め手の準備地形理解・同盟工作の積み上げ「攻めにくさ」を相殺

6-1. 「難攻不落」とは攻めにくさを示す言葉で落城しない意味ではない

「難攻不落」という言葉は、攻めにくさを強調する表現であって、絶対に落城しないという意味ではありません。稲葉山城もその例にあたり、地形と縄張りの面で高い防御力を持ちながら、歴史の中で落城を経験しました。ここを正しく理解することが、山城へのイメージを現実に近づけます。

金華山の急峻な斜面や尾根筋の制約、曲輪や堀切の配置は、たしかに攻城戦を極めて厄介なものにします。大軍で攻めても数を生かしにくく、少数の守備兵が効果的に防御できる構造でした。こうした条件をまとめて指して、「難攻不落の山城」と称えたと考えられます。

しかし、どれほど攻めにくい城でも、政治的な内紛や食料の枯渇、同盟関係の変化などが重なれば、持ちこたえるのは難しくなります。「難攻不落」とは、あくまで攻める側の負担が大きいという評価であって、歴史全体を通じて不落だったことを保証する言葉ではありません。この点を意識すると、稲葉山城の評価もより立体的に見えてきます。

6-2. 稲葉山城の落城事例:内応や同盟関係のゆらぎに注目する

稲葉山城の落城事例を見ると、内応や同盟関係のゆらぎが決定打になったことがわかります。1567年の稲葉山城の戦いでは、城そのものの防御力よりも、美濃国内の結束の弱さが表面化しました。ここでは、城が「どれだけ強かったか」だけでなく、「どれだけ支えられていたか」も問われていたのです。

斎藤龍興のもとでは、有力家臣の一部が信長側に傾き、城外の拠点を明け渡したり、情報を流したりしたとされます。こうした動きにより、稲葉山城は周囲の支えを失い、孤立していきました。城下の動揺も重なれば、山城の防御線がどれほど堅くとも、長期間の籠城戦を続けるのは困難になります。

このような経緯を踏まえると、稲葉山城の落城は「防御が弱かったから」ではなく、「支える政治的な土台が崩れたから」と整理できます。同じ山城でも、強い家臣団と安定した同盟に支えられていれば、同じ攻城戦でも結末は変わったかもしれません。城の運命は、地形と縄張りだけでは語り切れないことを教えてくれます。

6-3. 難攻不落の山城といえども状況次第で落ちると学べること

難攻不落の山城といえども、状況次第で落ちるという点から学べることは多いです。稲葉山城は、金華山の地形と三層の防御線に守られた強力な拠点でしたが、それでも政治的な弱点を補いきれませんでした。このギャップが、歴史から得られる重要な示唆になります。

城の防御力を、地形や石垣、堀の深さだけで測ろうとすると、稲葉山城の落城は不思議に見えるかもしれません。しかし、当時の同盟関係や家臣団のまとまり、周辺勢力との駆け引きを合わせて考えると、城が追い詰められていく流れが浮かび上がります。武力の強さと政権の安定は、必ずしも同じ方向を向かないのです。

この視点は、現代の組織やまちづくりにも通じます。どれほど立派な建物や設備を持っていても、人の信頼関係や情報の共有が弱ければ、いざというときに踏ん張りが利きません。稲葉山城の歴史を通じて、「見える守り」と「見えない支え」の両方を意識することの大切さに気付けるでしょう。

7. 斎藤期と信長期の稲葉山城改修を確実と推測で整理

斎藤期と信長期の改修(確実/推測)
観点斎藤期信長期
基本骨格地形利用の曲輪群が中核(推測含む)骨格継承のうえ要所を再編(推測含む)
防御の顔つき土造り中心・堀切と切岸が主(推測含む)石垣導入で虎口を強化(比較的確実)
城下の整備居館・家臣屋敷の集約が進む(推測含む)町割り・商業政策と一体化(比較的確実)
説明の注意「道三が直に築いた」断定は避ける石垣でも年代特定は慎重に扱う

7-1. 斎藤期に築かれたと考えられる稲葉山城の基礎的な構え

斎藤期に築かれたと考えられる稲葉山城の基礎的な構えは、自然地形を生かした山城らしいものだったと見られます。尾根筋に曲輪を段状に並べ、堀切や切岸で防御線を作る造りが中心でした。ここに、のちの改修の土台となる縄張りの骨格が形づくられました。

斎藤道三の時代には、美濃国内の支配を固めるため、山頂部の中枢と山麓の居館の双方が整えられたと考えられます。道三がどこまで直接縄張りに関わったかは断定しにくいものの、彼の政権下で城が本拠として整備されたことは確かです。基本となる登城路や曲輪群も、この段階で大枠が決まっていた可能性があります。

発掘調査や地形測量の成果からは、斎藤期に由来するとみられる土造りの防御施設が確認されています。ただし、どの堀切や曲輪がどの当主の代に掘られたかを細かく区別するのは難題です。このため、斎藤期の構えについては、「自然地形を活かした基本線はこの段階で整った」といった整理が現実的だといえるでしょう。

7-2. 信長期の改修と岐阜城化:確実にわかる変更点とはどこか

信長期の改修と岐阜城化については、確実にわかる変更点として石垣の導入や城下町の整備が挙げられます。とくに山頂部や重要な虎口周辺に築かれた巨石石垣は、信長期の特徴的な改修とみられます。これにより、稲葉山城は土中心の山城から、石垣を備えた近世的な城へと顔つきを変えていきました。

また、山麓の平地には楽市楽座などの政策と結びついた城下町の整備が進み、岐阜は商業拠点としても発展していきます。道路網や町割りの整え方には、信長の意図した統治スタイルが反映されていました。山城としての岐阜城と、城下町としての岐阜の町がセットで改修された点が重要です。

とはいえ、すべての改修箇所が資料上はっきりと年代特定できるわけではありません。石垣の一部や曲輪の拡張が信長期かその後かについては、専門家の間でも慎重な議論が続いています。そのため、「確実に信長期」と言える部分と、「信長期の可能性が高い」とする部分を区別して見る姿勢が求められます。

7-3. 発掘調査と史跡指定資料から読み取れる「確実」と「推測」の線引き

発掘調査と史跡指定資料からは、稲葉山城のどこまでが「確実」で、どこからが「推測」なのかの線引きが見えてきます。土層や遺物の年代測定により、少なくとも一部の施設については築かれた時期をある程度絞り込めるようになりました。ここに、近年の研究がもたらした新しい視点があります。

たとえば、特定の石垣の積み方や、溝から出土した陶磁器の年代などから、その場所が斎藤期か信長期か、あるいはさらに後の修復かといった見通しが立ちます。ただし、それでも完全に断定できない場所も多く、従来のイメージをそのまま受け入れることには慎重さが求められます。発掘成果と古文書の記述を合わせて検討する作業が続いている段階です。

このため、稲葉山城を説明するときには、「ここまでは確実」「ここから先は推測が含まれる」と意識して話を追うことが大切です。観光パンフレットなどでは簡潔さが優先されがちですが、研究の現場では不確実性も正面から扱います。そうした姿勢を知っておくと、城跡を歩くときにも「どこまでがはっきりしているのか」という視点で楽しめるでしょう。

8. 岐阜観光で歩く稲葉山城跡と登城路の見どころ

8-1. 現在の稲葉山城跡へはロープウェイと登山道どちらで登るべきか

現在の稲葉山城跡へ向かうには、ロープウェイと登山道のどちらを選ぶかで体験が変わります。時間重視で岐阜城天守からの眺めや展示を楽しみたいなら、ロープウェイが便利です。一方で、金華山の地形と山城の防御を体で感じたいなら、登山道を歩く価値があります。

ロープウェイを使えば、山麓から短時間で山頂近くまで上がることができ、高低差の大きさを一気に実感できます。そこから天守や資料館を見学し、山頂部の曲輪や石垣の遺構を見て回るコースが一般的です。足腰に不安がある人や、家族連れでの観光には安心できる選択肢でしょう。

一方の登山道は、七曲りなどのルートをたどることで、当時の登城路をなぞるような体験ができます。山腹の曲がりくねった道や斜面のきつさは、攻城戦のたいへんさを想像させてくれます。時間と体力に余裕があれば、登りは登山道、下りはロープウェイという組み合わせも、地形と景色の両方を味わえる楽しみ方です。

8-2. 七曲り大手道:登城路を歩きながら防御の工夫を体感する

七曲り大手道を歩くと、稲葉山城の防御の工夫を自分の足で体感できます。細い尾根を何度も折れ曲がりながら登るこの道は、攻める側にとって大きな負担でした。ここをたどることで、「難攻不落の登城路」という言葉が実感を伴って理解できます。

実際に歩いてみると、道幅の狭さや足場の悪さ、斜面からの高度感が強く印象に残ります。ところどころで周囲の地形を見渡すと、もしここを大軍が登ろうとした場合、列がどれほど伸びてしまうかが想像できます。曲がり角ごとに見える景色も変わり、防御側が待ち伏せに適した場所を選びやすいことにも気付きます。

この登城路を意識して歩くと、単なるハイキングコースが、戦国期の攻城戦を追体験する「屋外博物館」のように感じられます。息を切らしながら登る体験は、鎧や武具を身に着けた武士にとってどれほど過酷だったかを想像させてくれます。七曲り大手道は、稲葉山城の防御線を理解するうえで外せない現地の教材だといえるでしょう。

8-3. 現地で曲輪や堀切をどう探しどこを見れば山城らしさが伝わるか

現地で曲輪や堀切を探すときは、地面の平らな段差と不自然な溝に注目すると山城らしさが伝わります。金華山の斜面は本来なだらかに続くはずですが、稲葉山城跡では途中に棚田のような平場が現れます。これが曲輪にあたる場所で、防御と生活の両方に使われた空間でした。

堀切を見つけるには、尾根を横切るように入った切れ込みを探します。道を歩いていて突然ぐっと下る場所や、尾根の流れがいったん途切れる場所は、人工的に掘られた可能性が高いところです。その両側に平らな場所があれば、攻め込む敵を迎え撃つ曲輪との組み合わせをイメージできます。

山城見学に慣れていない人でも、「ここだけ地形の形がおかしい」と感じる場所を意識してみると、縄張りの痕跡が見えてきます。案内板や縄張り図があれば照らし合わせながら歩いてみると、三次元の地形と二次元の図が結びついて理解しやすくなります。稲葉山城跡は、山城入門としても良い教材なので、現地で自分なりの発見を重ねてみてください。

9. 稲葉山城と岐阜城の疑問をまとめて整理

9-1. 稲葉山城と岐阜城は同じ城なのかが一番気になる

稲葉山城と岐阜城は、同じ金華山山頂の城を時代によって違う名で呼んだものです。斎藤氏の支配期は稲葉山城、信長が制圧してから岐阜城と改められ、構造は改修されつつも役割は連続していました。そのため史料や観光案内では区別して呼び分けますが、現地の城跡としては一体の城と見てよいでしょう。名称の違いは政治的転換を示すサインです。

9-2. 難攻不落なのになぜ稲葉山城は何度か落城しているのか

難攻不落は「攻めにくい城」という意味で、「絶対に落ちない城」ではありません。稲葉山城は地形と縄張りは強力でしたが、斎藤龍興期には家臣の内応や同盟の変化で孤立し、防御力を生かし切れず落城しました。難攻不落という評価は、攻城側に多大な犠牲や時間を強いるという意味合いだと理解すると矛盾が少なくなります。

9-3. 初心者は曲輪や堀切など専門用語をどの程度覚えればよいか

初心者は曲輪・堀切・竪堀・虎口の四つを覚えておけば十分です。曲輪は斜面を削って作った平場、堀切は尾根を横に断ち切る溝、竪堀は谷筋に沿う縦の溝、虎口は城の出入口だとイメージしておくと現地で役立ちます。細かい分類は後から少しずつ覚えればよく、まずは地形の不自然な段差や溝を見付けて名前を当てはめていく楽しみ方がおすすめです。

10. 稲葉山城の難攻不落を現代目線で振り返る

10-1. 稲葉山城の三層防御線から読み取れる設計思想のまとめ

稲葉山城の三層防御線からは、「時間を稼ぎながら守る」という設計思想が読み取れます。山麓・山腹・山頂という三段階で敵を削り、中枢に近づくほど防御を厚くする構えでした。ここに、単なる力比べではない防御の工夫が見えてきます。

山麓では城下町や山麓居館が外縁の防波堤となり、山腹では堀切や竪堀が敵の進軍を細かく刻みました。山頂では一ノ門や巨石石垣を備えた中枢曲輪が最後のしがみつきの場として機能します。それぞれの層が役割を分担しつつ、全体で一つの防御システムを形作っていました。

このような構造は、現代の危機管理にも通じる考え方です。どこか一か所が突破されてもすぐ全面崩壊しないよう、複数の層を用意しておくという発想は、都市防災や情報セキュリティにも応用できます。稲葉山城を三層防御のモデルとして眺めると、戦国の城が意外なほど現代的に見えてくるでしょう。

10-2. 金華山の地形と縄張りが示す攻守バランスの独自性

金華山の地形と縄張りが示す攻守バランスは、稲葉山城ならではの独自性を持っています。急峻な山に築かれた城でありながら、山麓の城下町と一体になって運用されていたからです。この組み合わせが、攻めにくさと統治のしやすさを同時に追求した構えにつながりました。

山頂付近の曲輪は防御に特化し、山腹と山麓では人や物資の出入りをコントロールする役割が強くなります。長良川の水運や周辺街道との結び付きも考えれば、稲葉山城は軍事基地と行政・経済の中心の両方を担う存在でした。金華山の地形は、こうした機能を上下に分けて配置する舞台を提供していたのです。

この攻守バランスを意識して稲葉山城跡を歩くと、単に「高い山の上にある城」という印象から一歩踏み込み、山と町をセットにした空間設計として見えてきます。険しい山があったからこそ生まれた統治の形があり、その形は美濃一国の歴史を通して大きな意味を持ちました。金華山という自然の器と人の工夫のかみ合わせは、今も城跡に色濃く残っています。

稲葉山城のような山城を攻めるには、周辺に前線拠点を置いて兵站と作戦を回す必要があり、信長は別の場所でも同じ発想で城を築いています。
小牧山城とは?築かれた理由を「濃尾国境の前線拠点」から説明

10-3. 稲葉山城の教訓を現代の都市づくりや暮らしにどう生かせるか

稲葉山城の教訓は、現代の都市づくりや暮らしにも生かすことができます。地形をよく読み、無理に変えすぎずに活かす姿勢は、山間部や河川沿いのまちづくりにとって重要です。稲葉山城は、自然の強みと弱みを見極めて配置を決めた例として参考になります。

また、三層防御線の考え方は、防災計画やインフラ整備にも応用できます。洪水や地震などの災害に備えるとき、一つの堤防や一種類の対策に頼りすぎず、複数の段階で被害を小さくする工夫が求められます。稲葉山城のように、外側で時間を稼ぎ、内側で守りを固める発想は、広い意味でのリスク分散につながります。

最後に、難攻不落と称えられた城でも、内部の信頼が揺らげば脆くなるという点は、職場や地域コミュニティにも当てはまります。建物や制度より、人と人とのつながりが支えになる場合も少なくありません。稲葉山城の歴史を知ることは、私たちの暮らしの中で「何を強くしておくべきか」を考えるヒントにもなるでしょう。


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